「坊城俊克」の版間の差分
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2008年7月3日 (木) 15:19時点における版
坊城 俊克(ぼうじょう としかつ、享和2年9月11日(1802年10月7日) - 慶応元年7月20日(1865年9月9日))は、幕末の公家。坊城俊明の子、母は勧修寺経逸の娘。
京都で誕生する。文化10年(1813年)叙爵。蔵人頭、右大弁を歴任し、嘉永3年(1850年)参議、左大弁。安政4年(1857年)権中納言となる。また議奏となり、安政6年(1859年)には武家伝奏として、条約勅許問題、水戸降勅、将軍継嗣問題、和宮降嫁など、朝幕調停に大きく関与した。また文久元年(1861年)勅使として和宮降嫁に従って江戸に入り、武家伝奏任命の際の血誓を廃止する事に成功した。文久2年(1862年)大納言、元治元年(1864年)大宰権帥を兼任。慶応元年(1865年)従一位となるも、同年没。