「景公 (斉)」の版間の差分

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'''景公'''(けいこう、? - [[紀元前490年]])は[[中国]][[春秋時代]]の[[斉 (春秋)|斉]]の第25代君主(在位:[[紀元前548年]] - [[紀元前490年]])。[[姓]]は'''姜'''、[[氏]]は'''呂'''、[[諱]]は'''杵臼'''。父は[[霊公 (斉)|霊公]]、母は[[穆孟姫]]([[魯]]の宰相[[叔孫喬如]]の娘)。[[荘公光 (斉)|荘公]]の同母弟。
'''景公'''(けいこう、? - [[紀元前490年]])は[[中国]][[春秋時代]]の[[斉 (春秋)|斉]]の第25代君主(在位:[[紀元前548年]] - [[紀元前490年]])。[[姓]]は'''姜'''、[[氏]]は'''呂'''、[[諱]]は'''杵臼'''。父は[[霊公 (斉)|霊公]]、母は[[穆孟姫]]([[魯]]の宰相[[叔孫喬如]]の娘)。[[荘公光 (斉)|荘公]]の同母弟。


兄の荘公が横死したあと、[[崔杼]]に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は[[晏嬰]]を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により[[司馬穰苴]]を抜擢した。斉は景公のもとで覇者[[桓公 (斉)|桓公]]の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、[[孔子]]も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。
兄の荘公が[[横死]]したあと、[[崔杼]]に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は[[晏嬰]]を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により[[司馬穰苴]]を抜擢した。斉は景公のもとで覇者[[桓公 (斉)|桓公]]の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、[[孔子]]も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。


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2008年4月9日 (水) 05:15時点における版

景公(けいこう、? - 紀元前490年)は中国春秋時代の第25代君主(在位:紀元前548年 - 紀元前490年)。杵臼。父は霊公、母は穆孟姫(の宰相叔孫喬如の娘)。荘公の同母弟。

兄の荘公が横死したあと、崔杼に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により司馬穰苴を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。

先代
荘公
(姜斉)の君主
第25代:前548年 - 前490年
次代
晏孺子荼