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<center><table class="noprint" style="border:solid #999 1px; background:#f8f8f8; padding:0.2em 0.5em;"><tr><td>この記事ではローマ皇帝ティベリウスの同名の父について記述しています。<br/>第2代ローマ皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロは[[ティベリウス]]を、その他のティベリウス・クラウディウス・ネロについては[[ティベリウス・クラウディウス・ネロ (曖昧さ回避)]]をご利用ください。</td></tr></table></center>
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'''ティベリウス・クラウディウス・ネロ'''('''Tiberius Claudius Nero''', ? - [[紀元前33年]]頃)は、[[ローマ帝国]]第2代皇帝[[ティベリウス]]の実父で、[[アウグストゥス]]の妻[[リウィア]]の最初の夫。
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'''ティベリウス・クラウディウス・ネロ'''('''Tiberius Claudius Nero''', [[紀元前33年]]頃)は、[[ローマ帝国]]第2代皇帝[[ティベリウス]]の実父で、[[アウグストゥス]]の妻[[リウィア]]の最初の夫。


== 家族 ==
== 家族 ==
ティベリウス・ネロは名門リウィウス氏族に属するリウィア・ドルシラと結婚した。リウィアの父マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディヌスはクラウディウス氏族出身者であるため同族同士の結婚でもあった。この結婚で[[紀元前42年]]に自らと同名の長男ティベリウス・クラウディウス・ネロを、[[紀元前38年]]に次男[[大ドルスス|ネロ・クラウディウス・ドルスス]]を得ている。ドルススは妊娠中に離婚したリウィアがアウグストゥスと再婚した後に生まれている。
ティベリウス・ネロは名門[[リウィウス氏族]]に属するリウィア・ドルシラと結婚した。リウィアの父マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディヌスは[[クラウディウス氏族]]出身者であるため同族同士の結婚でもあった。この結婚で[[紀元前42年]]に自らと同名の長男ティベリウス・クラウディウス・ネロを、[[紀元前38年]]に次男[[大ドルスス|ネロ・クラウディウス・ドルスス]]を得ている。ドルススは妊娠中に離婚したリウィアがアウグストゥスと再婚した後に生まれている。


ティベリウス・ネロの死後、アウグストゥスの継子となったティベリウスとドルススは[[ユリウス・クラウディウス朝]]の一員に組み込まれティベリウスは第2代の[[ローマ皇帝]]ともなった。
ティベリウス・ネロの死後、アウグストゥスの継子となったティベリウスとドルススは[[ユリウス・クラウディウス朝]]の一員に組み込まれティベリウスは第2代の[[ローマ皇帝]]ともなった。


ドルススの息子である[[ゲルマニクス]]や第4代皇帝[[クラウディウス]]は孫にあたり、ゲルマニクスの子供である第3代皇帝[[カリグラ]]や[[小アグリッピナ]]は曾孫にあたる。小アグリッピナの息子である第5代皇帝[[ネロ]]は玄孫にあたる。
ドルススの息子である[[ゲルマニクス]]や第4代皇帝[[クラウディウス]]は孫にあたり、ゲルマニクスの子供である第3代皇帝[[カリグラ]]や[[小アグリッピナ]]は曾孫にあたる。小アグリッピナの息子である第5代皇帝[[ネロ]]は玄孫にあたる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴を[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]付きの[[クァエストル]]として始める。[[ポンペイウス]]との内戦勝利後、カエサルが[[プトレマイオス朝]]と戦ったアレクサンドリア戦争では艦隊を指揮し、勝利に貢献した。このときの貢献のためプブリウス・スキピオの後任の[[ポンティフェクス]]に任命され、[[ガリア]]にナルボやアレラテなどの[[植民市]]建設の指導のため派遣された。
名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴を[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]付きの[[クァエストル]]として始める。[[ポンペイウス]]との内戦勝利後、カエサルが[[プトレマイオス朝]]と戦ったアレクサンドリア戦争では艦隊を指揮し、勝利に貢献した。このときの貢献のためプブリウス・スキピオの後任の[[ポンティフェクス]]に任命され、[[ガリア]]にナルボやアレラテなどの[[植民市]]建設の指導のため派遣された。


このような経歴からカエサル派としてみられるが、[[紀元前44年]][[3月15日]]にカエサルが暗殺されると共和派に同調をせる。[[元老院]]において[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]ら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、僭主殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。
このような経歴からカエサル派としてみられるが、[[紀元前44年]][[3月15日]]にカエサルが暗殺されると共和派に同調をせる。[[元老院]]において[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]ら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、[[僭主]]殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。


その後[[共和政ローマ|ローマ]]はブルートゥス、カッシウスら共和派と[[マルクス・アントニウス]]、オクタウィアヌス(のちの[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]の[[三頭政治|三頭官]](国家再建三人委員会)との間で再度の内戦に突入する。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。
その後[[共和政ローマ|ローマ]]はブルートゥス、カッシウスら共和派と[[マルクス・アントニウス]]、オクタウィアヌス(のちの[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]の[[三頭政治|三頭官]](国家再建三人委員会)との間で再度の内戦に突入する。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。
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[[紀元前41年]]に[[プラエトル]]に就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の[[執政官|執政官(コンスル)]][[ルキウス・アントニウス]]とマルクスの妻[[フルウィア]]がオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在の[[ペルージャ]])で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ナポリと逃走するが、この間にも失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。
[[紀元前41年]]に[[プラエトル]]に就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の[[執政官|執政官(コンスル)]][[ルキウス・アントニウス]]とマルクスの妻[[フルウィア]]がオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在の[[ペルージャ]])で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ナポリと逃走するが、この間にも失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。


その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子[[セクストゥス・ポンペイウス]]のいる[[シチリア島]]へ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったためマルクス・アントニウスのいる[[アカイア]]へと渡った。
その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子[[セクストゥス・ポンペイウス]]のいる[[シチリア島]]へ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったためマルクス・アントニウスのいる[[アカイア]]へと渡った。


この年紀元前40年にアントニウスとオクタウィアヌスとの間では和平が締結され、翌年ティベリウス・ネロは家族と共に[[ローマ]]に帰還する。このローマでオクタウィアヌは初めて出会ったリウィアに惹かれ、結婚を強く望むようになる。ティベリウス・ネロはこの要望を受け入れ、身重の妻と離婚した。[[紀元前38年]][[1月17日]]にリウィアとオクタウィアヌスは結婚し、その後リウィアは次男ドルススを出産した。
この年紀元前40年にアントニウスとオクタウィアヌスとの間では和平が締結され、翌年ティベリウス・ネロは家族と共に[[ローマ]]に帰還する。このローマでオクタウィアヌは初めて出会ったリウィアに惹かれ、結婚を強く望むようになる。ティベリウス・ネロはこの要望を受け入れ、身重の妻と離婚した。[[紀元前38年]][[1月17日]]にリウィアとオクタウィアヌスは結婚し、その後リウィアは次男ドルススを出産した。


ティベリウス・ネロは長男ティベリウスと生まれたばかりの次男ドルススを養育したが紀元前33年に死亡した。このとき[[フォルム・ロマヌム]]での追悼演説は長男ティベリウスが務めた。ティベリウス・ネロの没後、ティベリウスとドルススはリウィアに引き取られアウグストゥスの継子として成長していくことになる。
ティベリウス・ネロは長男ティベリウスと生まれたばかりの次男ドルススを養育したが紀元前33年に死亡した。このとき[[フォルム・ロマヌム]]での追悼演説は長男ティベリウスが務めた。ティベリウス・ネロの没後、ティベリウスとドルススはリウィアに引き取られアウグストゥスの継子として成長していくことになる。


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[[de:Tiberius Claudius Nero (Prätor 42 v. Chr.)]]
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2008年1月19日 (土) 18:57時点における版

ティベリウス・クラウディウス・ネロTiberius Claudius Nero, ? - 紀元前33年頃)は、ローマ帝国第2代皇帝ティベリウスの実父で、アウグストゥスの妻リウィアの最初の夫。

家族

ティベリウス・ネロは名門リウィウス氏族に属するリウィア・ドルシラと結婚した。リウィアの父マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディヌスはクラウディウス氏族出身者であるため、同族同士の結婚でもあった。この結婚で紀元前42年に自らと同名の長男ティベリウス・クラウディウス・ネロを、紀元前38年に次男ネロ・クラウディウス・ドルススを得ている。ドルススは妊娠中に離婚したリウィアがアウグストゥスと再婚した後に生まれている。

ティベリウス・ネロの死後、アウグストゥスの継子となったティベリウスとドルススはユリウス・クラウディウス朝の一員に組み込まれ、ティベリウスは第2代のローマ皇帝ともなった。

ドルススの息子であるゲルマニクスや第4代皇帝クラウディウスは孫にあたり、ゲルマニクスの子供である第3代皇帝カリグラ小アグリッピナは曾孫にあたる。小アグリッピナの息子である第5代皇帝ネロは玄孫にあたる。

生涯

名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴をガイウス・ユリウス・カエサル付きのクァエストルとして始める。ポンペイウスとの内戦勝利後、カエサルがプトレマイオス朝と戦ったアレクサンドリア戦争では艦隊を指揮し、勝利に貢献した。このときの貢献のため、プブリウス・スキピオの後任のポンティフェクスに任命され、ガリアにナルボやアレラテなどの植民市建設の指導のため派遣された。

このような経歴からカエサル派としてみられるが、紀元前44年3月15日にカエサルが暗殺されると共和派に同調を見せる。元老院においてマルクス・ユニウス・ブルートゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌスら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、僭主殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。

その後ローマはブルートゥス、カッシウスら共和派とマルクス・アントニウス、オクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)、マルクス・アエミリウス・レピドゥス三頭官(国家再建三人委員会)との間で再度の内戦に突入する。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。

紀元前41年プラエトルに就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の執政官(コンスル)ルキウス・アントニウスとマルクスの妻フルウィアがオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在のペルージャ)で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ナポリと逃走するが、この間にも失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。

その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子セクストゥス・ポンペイウスのいるシチリア島へ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったため、マルクス・アントニウスのいるアカイアへと渡った。

この年紀元前40年にアントニウスとオクタウィアヌスとの間では和平が締結され、翌年ティベリウス・ネロは家族と共にローマに帰還する。このローマでオクタウィアヌは初めて出会ったリウィアに惹かれ、結婚を強く望むようになる。ティベリウス・ネロはこの要望を受け入れ、身重の妻と離婚した。紀元前38年1月17日にリウィアとオクタウィアヌスは結婚し、その後リウィアは次男ドルススを出産した。

ティベリウス・ネロは長男ティベリウスと生まれたばかりの次男ドルススを養育したが、紀元前33年に死亡した。このときフォルム・ロマヌムでの追悼演説は長男ティベリウスが務めた。ティベリウス・ネロの没後、ティベリウスとドルススはリウィアに引き取られ、アウグストゥスの継子として成長していくことになる。