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2007年3月19日 (月) 11:10時点における版

ファイル:色部長門君追念碑.PNG
新潟市にある戊辰公園の色部長門君追念碑

色部 久長(いろべ ひさなが、1825年(文政8年) - 1868年(慶応4年)7月29日 (旧暦))は、米沢藩家老受領名信濃であったことから色部 長門の名で知られている。幕末期に奥羽越列藩同盟に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった港のある越後方面(現在の新潟市)を警備する為に総督に命じられ、奮戦し功績を残した。

1868年(慶応4年)に鳥羽・伏見の戦いを端に発した戊辰戦争をきっかけに、新政府軍と旧幕府軍で全国各地で衝突が発生し、薩長を中心とした新政府軍が北陸道を北へ進軍する中、色部総督は藩兵を600引き連れ、現在の新潟県新潟市にある西堀の光林寺に本陣を置き、奥羽越列藩同盟にとって物資の補給に大変重要な新潟港を警備をした。しかし新政府軍による海上などからの猛攻を受け、新潟の町は焼け野原になり、これ以上の衝突によって新潟の町の被害拡大を懸念し兵の撤退を決定した。米沢藩兵が敗走する中、敗戦の責任も取るべく、自らも生きながらえる選択をせず、僅か数名の兵を引き連れ新政府軍の本拠地であった関屋へ斬り込み、奮闘するも敵の攻撃に被弾し助からないと悟り、敵に首を取られまいと新潟市の関屋下川原新田(現在の新潟県立新潟高等学校周辺)にあった茄子畑にて割腹し、部下に介錯させた。享年44歳。

戦後に米沢藩は新政府軍によって藩主であった上杉斉憲は子である茂憲に家督を譲り隠居、4万石を召し上げられる処罰を受け、新政府軍より一連の戦犯について調査を命じられ、苦慮した結果、既に新潟の地で死亡している家老の色部を戦犯として届出をしそれが認められ、奥羽諸藩では戦犯者が処刑される中、米沢藩では色部のお陰で処刑される者を出さずに済み、色部家は家名断絶されたが、明治16年に許されたという。

色部の的確な判断により新潟の戦火の拡大が抑えられ、今ここに新潟の地があるのは色部長門のお陰である事を称え、色部の絶命した地に、1932年昭和7年)8月30日に関屋戊辰戦蹟保存会の会長斉藤巳三郎を発起人として、諸氏の連名によって、色部の功績と慰霊をこめて色部長門君追念碑が建立された。後に米沢市でも、戦犯として米沢藩の責任一身に背負って汚名を被った事で米沢藩を守った功績を称え1963年(昭和38年)に色部長門追念碑が立てられた。