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2007年2月22日 (木) 21:25時点における版
藤堂 高敏(とうどう たかとし、元禄6年2月4日(1693年3月10日) - 享保13年4月13日(1728年5月21日))は、伊勢国津藩の第5代藩主。父は久居藩の初代藩主・藤堂高通(高敏は三男)。母は福本休悦の娘・智鏡院。正室は中川久通の娘。官位は従四位下。和泉守。
1693年2月4日生まれ。三男であったが、二人の兄がいずれも早世したため、嫡男となる。1697年に父が死去したとき、まだ5歳の幼少だったことから久居藩の家督は叔父の藤堂高堅が継ぎ、高敏は成長してから久居藩主ということとなった。ところが本家の津藩において藤堂高睦の二男が全て早世したため、1705年に高睦の養嗣子となる。1708年、高睦の死去により後を継いで藩主となった。しかし藩政においては凶作が相次いで財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。
1728年、疱瘡が原因で倒れる。将軍・徳川吉宗から薬を下賜されたが一向に良くならず、4月13日に津城にて死去した。死後、家督は養嗣子の藤堂高治が継いだ。高治は初代藩主・藤堂高虎の弟の子孫であり、わずか5代で初代藩主・高虎の男系血統は絶えることとなる。法号:大輪院殿智月高映権大僧都。
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