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大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営<ref name="岡山人名辞典4" />する。[[1943年]](昭和18年)、[[三菱自動車工業#主な開発・生産拠点|三菱重工業水島航空機製作所]]の協力工場として治見工具製作所を設立<ref name="岡山人名辞典4" />する。[[1945年]]、設備を統合し<ref name="岡山人名辞典4" />、赤沢農機具製作所として発足<ref name="岡山人名辞典4" />し、社長を務めた。 |
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その後、昭和倉庫、岡山糧肥、[[日清オイリオグループ|日本興油工業]]、[[成通岡山ビル|岡山会館]]、[[児島 (岡山市)|光南台観光開発]]、[[岡南飛行場|岡山空港ビル]]社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮<ref name="岡山人名辞典4" />と呼ばれた。 |
その後、昭和倉庫、岡山糧肥、[[日清オイリオグループ|日本興油工業]]、[[成通岡山ビル|岡山会館]]、[[児島地域 (岡山市)|光南台観光開発]]、[[岡南飛行場|岡山空港ビル]]社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮<ref name="岡山人名辞典4" />と呼ばれた。 |
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また、岡山県の観光振興にも尽力し、[[岡山県観光連盟]]会長、[[日本観光振興協会|日本観光協会]]中国支部長を歴任<ref name="岡山人名辞典4" />した。 |
また、岡山県の観光振興にも尽力し、[[岡山県観光連盟]]会長、[[日本観光振興協会|日本観光協会]]中国支部長を歴任<ref name="岡山人名辞典4" />した。 |
2024年4月5日 (金) 01:50時点における最新版
あかざわ かめしろう 赤沢 亀四郎 | |
---|---|
生誕 |
1901年7月9日 岡山県岡山市 |
死没 | 1962年10月24日(61歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 関西中学校中退 |
職業 | 実業家 |
肩書き |
元岡山県観光連盟会長 元日本観光協会中国支部長 |
赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉7月9日 - 1962年〈昭和37年〉10月24日)は、岡山県岡山市出身の実業家。元赤沢農機具製作所代表取締役社長。元岡山県観光連盟会長。
来歴[編集]
1901年(明治34年)7月、岡山市に生まれる[1]。関西中学(現・関西高校)へ進学するも中退[1]する。
大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営[1]する。1943年(昭和18年)、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として治見工具製作所を設立[1]する。1945年、設備を統合し[1]、赤沢農機具製作所として発足[1]し、社長を務めた。
その後、昭和倉庫、岡山糧肥、日本興油工業、岡山会館、光南台観光開発、岡山空港ビル社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮[1]と呼ばれた。
また、岡山県の観光振興にも尽力し、岡山県観光連盟会長、日本観光協会中国支部長を歴任[1]した。
1962年10月24日死去。享年62。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 吉岡三平 監修『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。