「庚戌の変」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
m Bot作業依頼: 中国関連カテゴリの改名に伴う貼り替えの依頼 1 (Category:北京市の歴史) - log |
||
13行目: | 13行目: | ||
{{デフォルトソート:こうしゆつのへん}} |
{{デフォルトソート:こうしゆつのへん}} |
||
[[Category:明朝の戦闘]] |
[[Category:明朝の戦闘]] |
||
[[Category:北京の歴史]] |
[[Category:北京市の歴史]] |
||
[[Category:1550年の中国]] |
[[Category:1550年の中国]] |
||
[[Category:1550年の戦闘]] |
[[Category:1550年の戦闘]] |
2023年10月16日 (月) 22:45時点における版
庚戌の変(こうじゅつのへん)は、明の嘉靖29年(1550年)、モンゴルのアルタン・ハーンの軍勢が北京を包囲した事件。
モンゴルでは15世紀末から16世紀初頭にかけて、クビライの子孫を称するダヤン・ハーンの手で再統一が成し遂げられた。オルドスに封じられたその孫アルタン・ハーンは、16世紀前半、頻繁に明に侵入して略奪を行うようになり、朝貢や互市の要求も激しくなった。
嘉靖29年(1550年)には長城を越えて直隷に侵入し、3昼夜に渡って北京を包囲、朝貢と互市を要求した。この事件を庚戌の変と呼ぶ。この際は、明朝に脅威を与えただけで包囲を解いて立ち去ったが、翌1551年に再び交易を求めた。この要求を受けて大同で馬市が設けられ、モンゴルが提供した馬と絹織物とが交換された。しかし、まもなく明朝との関係が悪化して馬市が閉鎖されたため、両勢力の抗争は激化することになった。
こうしたアルタン・ハーンの活動は明にとって大きな脅威であり、長城の強化事業が行われた。