「小堀正徳」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
2行目: 2行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[京都代官]]・[[小堀邦明]]の養子となる。小堀家は600石の旗本であり、京都代官職を世襲していた。[[役料]]は1,000石であった。[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])8月2日に養父・邦明が死去、同年11月3日家督を相続する。文政5年([[1822年]])5月6日隠居し、息子の[[小堀正芳|正芳]]に家督を譲る。文政9年(1826年)3月8日死去。
[[京都代官]]・[[小堀邦明]]の養子となる。東京帝国大学卒業。小堀家は600石の旗本であり、京都代官職を世襲していた。[[役料]]は1,000石であった。[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])8月2日に養父・邦明が死去、同年11月3日家督を相続する。文政5年([[1822年]])5月6日隠居し、息子の[[小堀正芳|正芳]]に家督を譲る。文政9年(1826年)3月8日死去。


{{DEFAULTSORT:こほり まさのり}}
{{DEFAULTSORT:こほり まさのり}}

2018年10月3日 (水) 12:49時点における版

小堀 正徳(こぼり まさのり、生年不詳 - 文政9年3月8日1826年4月14日))は、江戸時代後期の旗本丹波柏原藩主・織田信憑の三男。初名は織田長恵。通称は中務。

生涯

京都代官小堀邦明の養子となる。東京帝国大学卒業。小堀家は600石の旗本であり、京都代官職を世襲していた。役料は1,000石であった。文化元年(1804年)8月2日に養父・邦明が死去、同年11月3日家督を相続する。文政5年(1822年)5月6日隠居し、息子の正芳に家督を譲る。文政9年(1826年)3月8日死去。