「山口二矢」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Paragonia (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Paragonia (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
5行目: 5行目:
|画像説明=
|画像説明=
|生年月日=[[1943年]][[2月22日]]
|生年月日=[[1943年]][[2月22日]]
|生誕地=[[日本]] [[東京都]]
|生誕地=[[日本]][[東京都]]
|没年月日=[[1960年]][[11月2日]](17歳)
|没年月日=[[1960年]][[11月2日]](17歳)
|死没地=[[東京]]
|死没地=[[日本]][[東京]][[練馬区]]東京少年鑑別所開實2號
|職業=社会運動家、政治家
|職業=社会運動家、政治家
|死因 = 自殺
|死因 = 自殺
25行目: 25行目:
== 略歴 ==
== 略歴 ==
=== 生涯前半 ===
=== 生涯前半 ===
二矢の[[東京都]]生まれ。彼の父[[山口晋平]]は[[東北帝国大学]]出身で[[陸上自衛官]]の厳格な父([[1等陸佐]]。事件3日後の[[10月15日]]依願退職)と優秀な兄のもとに育つ。大衆作家の[[村上浪六]]は母方の祖父、文化史家の[[村上信彦]]は伯父に当たる。
二矢の[[1943年]][[東京都]]の[[陸上自衛隊]]員[[山口晋平]]の次男生まれ。生まれた時次男児として生まれたことから、父親晋平のが姓名判断をした上で、名前を二矢とした。彼の父[[山口晋平]]は[[東北帝国大学]]出身で[[陸上自衛官]]の厳格な父([[1等陸佐]]。事件3日後の[[10月15日]]依願退職)と優秀な兄のもとに育つ。大衆作家の[[村上浪六]]は母方の祖父、文化史家の[[村上信彦]]は伯父に当たる。


[[学校法人玉川学園|玉川学園]]高等部に進んだが、[[1959年]]、16歳で[[赤尾敏]]率いる[[大日本愛国党]]に入党し、[[玉川学園]]高等部を修了と[[大東文化大学]]に進学しました。事件当時は[[大東文化大学]]の聴講生だった。
[[学校法人玉川学園|玉川学園]]高等部に進んだが、[[1959年]]、16歳で[[赤尾敏]]率いる[[大日本愛国党]]に入党し、[[玉川学園]]高等部を修了と[[大東文化大学]]に進学しました。事件当時は[[大東文化大学]]の聴講生だった。

[[1960年]]10月12日、自民、社会(現・社会民主)、民社の三党党首立会演説会。<ref>[http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/asanuma.htm 浅沼社会党委員長暗殺事件]</ref> 彼は浅沼稲次郎を削除する計画を立て、刀袋などを準備、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていた。


=== 浅沼稲次郎の暗殺事件 ===
=== 浅沼稲次郎の暗殺事件 ===
53行目: 55行目:
* [[金元鳳]]
* [[金元鳳]]
* [[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]
* [[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]

== 参考文献 ==
*沢木耕太郎、『テロルの決算』、(文春文庫/1982)
*赤塚行雄、『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』、(講談社文庫/1984)
*礫川全次、『戦後ニッポン犯罪史』、(批評社//2000)


{{people-stub}}
{{people-stub}}

2012年8月16日 (木) 08:51時点における版

山口 二矢
生誕 1943年2月22日
日本東京都
死没 1960年11月2日(17歳)
日本東京都練馬区東京少年鑑別所開實2號
死因 自殺
国籍 日本
職業 社会運動家、政治家
政党 大日本愛国党(1959-1960)
宗教
配偶者
山口晋平(父)
親戚 村上浪六(母方の祖父)、村上信彦(母方のおじ)
テンプレートを表示

山口 二矢(やまぐち おとや、1943年2月22日 - 1960年11月2日)は、日本右翼活動家、政治家。1960年10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯。玉川学園高等部を中退し、大東文化大学に進学しました。大東文化大学在学中1960年10月各放送局の主催政党代表放送の演説で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎を刀で殺害後に自殺した。

略歴

生涯前半

二矢の1943年東京都陸上自衛隊山口晋平の次男生まれ。生まれた時次男児として生まれたことから、父親晋平のが姓名判断をした上で、名前を二矢とした。彼の父山口晋平東北帝国大学出身で陸上自衛官の厳格な父(1等陸佐。事件3日後の10月15日依願退職)と優秀な兄のもとに育つ。大衆作家の村上浪六は母方の祖父、文化史家の村上信彦は伯父に当たる。

玉川学園高等部に進んだが、1959年、16歳で赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、玉川学園高等部を修了と大東文化大学に進学しました。事件当時は大東文化大学の聴講生だった。

1960年10月12日、自民、社会(現・社会民主)、民社の三党党首立会演説会。[1] 彼は浅沼稲次郎を削除する計画を立て、刀袋などを準備、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていた。

浅沼稲次郎の暗殺事件

1960年10月12日に山口は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された(浅沼稲次郎暗殺事件)。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象[2]であったが、事件の重大さから名前が公表されている。なお、事件の1ヶ月前に大日本愛国党を脱党している。

浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる遺書の文面は以下の通り。

汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。

死亡

山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し[3]シーツを裂いて縄状にし天井の裸電球を包む金網にかけて首吊り自殺した。

右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。ただし沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎野坂参三など政治家もリストに加えており、なかには「大東亜戦争」批判を行ったとして三笠宮崇仁親王まで狙っていたという。

死後

毎年彼が死亡した11月22日右翼團體が追慕祭を開催しています。

脚注

  1. ^ 浅沼社会党委員長暗殺事件
  2. ^ 少年法では家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者の実名報道を禁止しているだけで逮捕者や指名手配者の実名報道を禁止していない。山口は逮捕はされたが家裁審判に付されたり公訴提起されたりしていないため、厳密に言えば少年法の実名報道禁止規定には抵触していない。
  3. ^ 一部で「血書」とされているが誤りである。

関連項目

参考文献

  • 沢木耕太郎、『テロルの決算』、(文春文庫/1982)
  • 赤塚行雄、『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』、(講談社文庫/1984)
  • 礫川全次、『戦後ニッポン犯罪史』、(批評社//2000)