イギリス・ザンジバル戦争

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イギリス・ザンジバル戦争
Anglo-Zanzibar War

砲撃後のスルターンのハレム
戦争
年月日1896年8月27日
場所ザンジバル
結果:イギリス軍の勝利
交戦勢力
イギリス ザンジバル
指導者・指揮官
ハリー・ローソン
ロイド・マシューズ
ハリド・ビン・バルガシュ
戦力
正規軍900名、軍艦4隻 2800名、軍艦1隻
損害
軍艦1隻に被害
死者なし
軍艦1隻沈没
死者500名

イギリス・ザンジバル戦争(イギリス・ザンジバルせんそう)は、1896年8月27日イギリスザンジバル・スルタン国間で起こった戦争の呼称である。戦争自体が僅か40分間しか継続しなかったため、歴史上一番短い戦争としてギネスに記録されている。

概要

スルターン宮殿に向けて艦砲射撃を行うイギリス艦隊。左側の帆船がザンジバル艦「グラスゴー」
艦砲射撃時のイギリス艦隊対ザンジバルの位置関係。
旗艦「セント・ジョージ」からの上陸部隊を描いたイラスト。
タンザニアにおけるザンジバルの位地

19世紀末、ザンジバル・スルタン国はドイツ帝国イギリス双方から圧迫され、対岸の東アフリカにあった勢力圏をドイツ領東アフリカイギリス領東アフリカに分割しており、1890年ヘルゴランド=ザンジバル条約でイギリスの保護国と化していた。

戦争の発端は勃発2日前の1896年8月25日、それまでイギリスの植民地行政に快く協力していた、第5代ザンジバルスルターンハマド・ビン・トゥワイニが、甥にあたるハリド・ビン・バルガシュによるクーデターで暗殺された事から始まる。バルガシュはクーデター後に自身が新たなスルターンであると宣言し、事実上トゥワイニの次のスルターンとして実権を握ることになる。しかしながらその後、別のスルターン候補者であった、ハムード・ビン・モハメドより、退任要求の最後通牒が提示される。彼は外交や政策上便宜を図るのに緩慢な人物であるとされ、イギリス側から好ましく思われていた。バルガシュはこれを拒否、すぐさま軍隊約2800人を召集し、スルターンの旧式武装艦グラスゴー(H.H.S. Glasgow)を湾に停泊させた。バルガシュの軍勢が宮殿の要塞化を始める一方で、イギリス海軍はスルターン宮殿に面した港湾に5種の軍艦を集結させる(内訳は、エドガー級防護巡洋艦セント・ジョージ、 パラス級防護巡洋艦フィラメルアーチャー級水雷巡洋艦ラクーン、以上当時の最新式巡洋艦3隻、そして砲艦のスラッシュとスパロウである)。「英国擁護派」のザンジバル軍の正規兵を援助するため、イギリスはイギリス海軍部隊も上陸させた。当時のイギリス海軍大尉、ロイド・マシューズに率いられたイギリス海軍は、2つの大隊に分けられ約900名にのぼった。

スルターン側のアメリカ合衆国代表を経由した土壇場の和平交渉にもかかわらず、最後通牒の猶予時刻を過ぎた8月27日午前9時丁度に砲撃命令が下り、EAT午前9時2分から宮殿を標的としたイギリスの集中砲撃が始まった。グラスゴーは途端に沈没、スルターン宮殿は崩壊、犠牲者の数は拡大し、バルガシュは避難所と考えていたドイツ領事館へ早々と撤退した。砲撃は開始時刻の9時から40分後に終了した。

戦後

戦後、ハムードが正式にスルターンに就任し、奴隷制の廃止など改革を進めることとなる。

その後イギリスはドイツに、かつてのスルターンであるバルガシュをイギリス側に降伏させるよう要求したものの、バルガシュは同年10月2日ドイツ領東アフリカへと亡命しダルエスサラームに滞在。だが独領東アフリカも第一次世界大戦東アフリカ戦線によってイギリスが侵攻し、バルガシュは1916年にイギリス軍によって拘束されるとセントヘレナ島、更にはセーシェルへと流刑される。その後1925年に釈放されケニアモンバサにて生活することを許可されるが、1927年にこの世を去った。

関連項目

外部リンク