朱元旭

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朱 元旭(しゅ げんきょく、479年 - 545年)は、北魏から東魏にかけての官僚は君昇。本貫楽陵郡

経歴[編集]

諸子や史書を渉猟して、いくつかの問題を解明した。清河王常侍を初任とした。太学博士・員外散騎侍郎に任じられた。たびたび高句麗に対する使者をつとめた。尚書度支郎中に任じられた。520年神亀3年)、郎に選ばれながら精勤しない者が処分されたが、元旭は辛雄祖瑩羊深源子恭らとともに才能を買われて留任となった。まもなく鎮遠将軍の位を加えられ、尚書右丞を兼ね、郎中・青州中正となった。関西都督の蕭宝寅が「率いる軍は10万におよぶが、糧食は1月しかない」と報告すると、孝明帝はその理由を糾明させた。諸官はその罪を元旭に押しつけた。元旭が入朝すると、御前でかがんで資料を指し示して数え、蕭宝寅の兵の糧食が1年分を超えることを証明すると、許しを得た。通直散騎常侍の位を受けた。528年永安元年)、平東将軍・光禄大夫の位を受け、尚書左丞に任じられた。後に司農少卿に転じ、衛将軍・左光禄大夫の位を受けた。天平年間、再び尚書左丞に任じられた。東魏が汲郡河内郡黄河を挟む地に義州を立て、西魏から帰順した人々を住まわせると、元旭は使持節・驃騎将軍・義州刺史に任じられた。545年武定3年)夏、義州で死去した。享年は67。驃騎将軍・幽州刺史の位を追贈された。

子の朱敬道は、武定年間に司徒長流参軍となった。

伝記資料[編集]