コンテンツにスキップ

瀬川弥右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瀬川彌右衛門から転送)
瀬川弥右衛門

4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年明治26年)11月4日 - 1967年昭和42年)11月21日[1])は、日本資産家実業家政治家貴族院多額納税者議員)。「弥右衛門」の名前は代々襲名されており、本記事に記載するのは4代目である[2]

経歴

[編集]

岩手県稗貫郡花巻町出身[3]。出生名は周蔵[2]。花巻町でも有数の豪農である瀬川家に、3代弥右衛門の子として生まれ、父の死去に伴い1922年(大正11年)1月に家督を相続し弥右衛門を襲名した[3][4]

慶應義塾大学経済学部を卒業。父が没した1922年の時点では瀬川家は県下一の多額納税者であった[3]。この時期には農家から貸金業に中心は移っていたとみられている[3]。豊富な資金を岩手軽便鉄道花巻電気などに投資し、その役員となった[3]。特に岩手軽便鉄道に関しては、国有化の熱心な推進者であった[3]。このほか、盛岡貯蓄銀行・花巻銀行の創立にも関与した[要出典]

花巻町会議員を務めた[1]。1925年(大正14年)に岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[5][6]から1939年(昭和14年)9月28日まで2期在任し[1]、さらに1946年(昭和21年)補欠選挙[7]で当選し同年9月20日から[8]1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任し[1]、通算3期15年間務めた[1][3]

親族

[編集]

妹の浦子は、北海道大学学長を務めた島善鄰(稗貫郡矢沢村育ち)と結婚した[2][9]。また妻のコト(1895年12月12日 - 1924年2月4日)[10]は、宮沢賢治の叔母(母の妹)で[2][9]、弥右衛門の実弟の瀬川貞蔵は賢治と岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)で同級生だった[9]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』205頁。
  2. ^ a b c d 阿部彌之「農民が明るく楽しくと実践した花巻の2人、島善鄰・宮沢賢治」『宮沢賢治記念館通信 第111号 (PDF) 』2014年8月27日、2-3頁。
  3. ^ a b c d e f g 深澤あかね「近代化過程における地方都市商業者の関わり:岩手県花巻地方のインフラ整備を中心に」『東北大学大学院教育学研究科研究年報』第54巻第1号、東北大学大学院教育学研究科、2005年12月、215-240頁、CRID 1520009407430524416hdl:10097/14133ISSN 13465740 
  4. ^ 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年、セ2頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、35頁。
  6. ^ 『官報』第3931号、大正14年9月30日。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、57頁。
  8. ^ 『官報』第5909号、昭和21年9月23日。
  9. ^ a b c 米地文夫「銀河鉄道の「燈台守」ヘラクレス仮説からみた宮沢賢治の重層的世界」『総合政策』第11巻第2号、岩手県立大学総合政策学会、2010年5月1日、109-125頁。 該当記述は119-120頁にある。
  10. ^ 堀尾青史『年譜 宮沢賢治伝』中央公論社<中公文庫>、1991年、p.20

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。