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渡辺勘兵衛 (石田家臣)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渡辺勘兵衛 / 渡辺新之丞
時代 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長5年9月15日1600年10月21日
別名 新之丞、
主君 石田三成
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渡辺 勘兵衛(わたなべ かんべえ)は、安土桃山時代武士石田三成の家臣。は不明。別名で新之丞(しんのじょう)とも書かれ、渡辺新之丞ともする。『佐和山落城記』[1]登場人物で、石田三成に付き従った家臣の1人としてその名が見られる[2]

なお、同じく渡辺勘兵衛を名乗った渡辺了(わたなべ さとる)[3]とは別人である。

略歴

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前歴や出身は不明[4]

柴田勝家羽柴秀吉から2万石での誘いを受けた豪傑で、他の大名の間でも評価が高い人物であったが、 勘兵衛はそれらの誘いをすべて断った。その後、秀吉の家臣である石田三成に仕えた[2]。当時、三成は禄高500石の小姓であったので、不思議に思った秀吉が訊ねると、三成は「自分の500石の知行全てを与えた。勘兵衛に自分が100万石取りになった際に10万石を与える約束をして召し抱えた」と話した。三成の大志に感嘆した秀吉が三成自身はどうするのかと問うと、「勘兵衛の家に居候になります」と聞いて大笑したとの話が伝わる[2]

後に、三成が佐和山城主となると、勘兵衛の知行を加増しようとしたが、勘兵衛は「殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます」と固辞し、加増を断った[2]。500石のままで居続けたという[5]

関ヶ原の戦いでは、主君の三成に従い西軍に属する。黒田氏の家臣で勇猛で知られた後藤基次一騎討ちをする[6]など活躍するが、西軍の敗走に伴って重傷を負った[2]自害する前に、今生の名残にと三成に会いに行くと、三成は勘兵衛の手を取って「そなたの10万石も、夢となってしまった」といたわった[2]。勘兵衛は三成にそれまでの恩義に対する感謝を述べると自害した[2]

渡辺甚平

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渡辺勘兵衛は『佐和山落城記』で三成に最後まで付き従った3人の家臣の1人「渡辺甚平」(勘平)という名で登場するが [7]、渡辺勘兵衛は9月15日に関ヶ原の戦いで自害しているため、別人説や命日の誤伝説などが挙げられるも詳細は不明。

脚注

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  1. ^ 石田三成の家臣で、佐和山城落城時に殉死した山田上野介の孫であり、自身も佐和山落城の現場に居合わせた喜庵が1616年に著したとされる史書。『石田三成のすべて』(新人物往来社)に全文が収録されている。
  2. ^ a b c d e f g h 安藤 2020, p. 198.
  3. ^ ”槍の勘兵衛”で知られる足軽大将の渡辺了の方が有名で、『渡辺勘兵衛覚書』『渡辺勘兵衛武功覚書』『渡辺水庵覚書』などがある。
  4. ^ 『日本の名将365日』で安藤優一郎は、勘兵衛は「「尾張の人。織田信長に仕え、近江・佐和山城主。本能寺の変後は豊臣秀吉を助け、山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いに功を立て、越前北ノ庄城主となった」[2]と書いているが、史実とは全く違う。
  5. ^ 以上は『国史美談教訓画蒐』に拠る。
  6. ^ 『国史画帖大和櫻』に拠る。ただし、『関原軍記大成』は基次と一騎討ちした石田家臣は大橋掃部であるとしている。
  7. ^ 新人物往來社 1975, p. 5.

参考文献

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  • 安藤優一郎「織豊期:大義・友情に生きた名将193」『日本の名将365日』辰巳出版、2020年、198頁。ISBN 9784777826193