コンテンツにスキップ

浄賢寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浄賢寺
所在地 愛知県西尾市須田町45
位置 北緯34度51分52.1秒 東経137度03分6.0秒 / 北緯34.864472度 東経137.051667度 / 34.864472; 137.051667座標: 北緯34度51分52.1秒 東経137度03分6.0秒 / 北緯34.864472度 東経137.051667度 / 34.864472; 137.051667
山号 洞松山
宗旨 浄土真宗
宗派 大谷派
本尊 阿弥陀如来立像
法人番号 3180305006861 ウィキデータを編集
浄賢寺の位置(愛知県内)
浄賢寺
テンプレートを表示

浄賢寺(じょうげんじ/じょうけんじ、淨賢寺)は、愛知県西尾市須田町45にある真宗大谷派寺院。山号は洞松山。本尊は阿弥陀如来立像。

歴史[編集]

かつては松山八幡宮における六坊のひとつの西光坊だった[1]。天福元年(1233年)、尊願が矢作村の柳堂で親鸞の教化を受け、天台宗から浄土宗に改宗したと伝わる[2]

天正18年(1590年)、田中吉政西尾城の城郭を拡張した際に、城下須田町の現在地に移った[2]。慶長7年(1602年)に本願寺が東西に分立すると浄土真宗に改宗し[2]、寛永3年(1626年)に西光坊から浄賢寺に改めた[1]

元禄4年(1701年)には本堂が改築され、享保2年(1717年)秋に再建された[2]。また、弘化2年(1845年)2月にも本堂が再建された[2][1]鬼瓦の製作者は平坂の清助である[3]。格天井には寄進者である深谷・辻・外山・岩瀬らの名前が書かれている[1]

境内[編集]

  • 本堂 - 弘化2年(1845年)竣工。浄賢寺の西側には西尾城があり、本堂・山門ともに珍しい西向きである。
  • 山門 - 文化3年(1806年)竣工。
  • 鐘楼 - 享保2年(1717年)竣工。梵鐘は1954年(昭和29年)8月に滋賀県愛知郡長村鋳物師である黄地佐平が鋳造。
  • 庫裏 - 通常とは異なり、本堂に向かって左手にある。
  • 墓地 - 金物商の辻利八など辻家の墓、西尾藩御用達筆頭だった深谷家の墓、岩瀬弥助など岩瀬家の墓などがある。

現地情報[編集]

所在地
アクセス

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『西尾城下町ガイドブック』西尾市資料館、2002年、p.25
  2. ^ a b c d e 『社寺文化財報告書 建造物5 浄土真宗寺院』西尾市教育委員会、2003年、pp.88-91
  3. ^ 礒貝逸夫『地域からの目 城下町西尾』三河新報社、1984年、p.56-59

参考文献[編集]

  • 『社寺文化財報告書 建造物5 浄土真宗寺院』西尾市教育委員会、2003年
  • 『西尾城下町ガイドブック』西尾市資料館、2002年
  • 礒貝逸夫『地域からの目 城下町西尾』三河新報社、1984年

外部リンク[編集]