河手捨二

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河手 捨二(かわて すてじ)は、日本実業家。第3代三菱鉱業会長。

人物・経歴[編集]

東京府第一中学を経て、1899年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱商事入社[1]。1914年三菱商事司支店副長。1918年三菱商事若松支店長。1920年三菱商事石炭部長兼東京支店長[2]。1923年、岩崎彦弥太からの銀製カップ寄贈を受け、三菱庭球同好会HI盃大会初代委員長に就任[3]

三菱鉱業常務取締役兼営業部長、雄別炭鉱鉄道常務取締役、中島鉱業監査役等を経て[1]、1936年から三菱鉱業取締役会長を務め[4]日中戦争中、北京事務所の開設などを進めた[5]。1938年帝国コークス創立発起人[6]。1942年三菱鉱業取締役会長を退任[7]。この間、三菱本社取締役等も兼務した[8]

脚注[編集]

  1. ^ a b 河手捨二 (第8版 昭和3(1928)年7月 の情報)日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
  2. ^ 大島久幸「三菱商事成立期の人材形成」専修大学社会科学研究所 社会科学年報 第35号 2001年3月
  3. ^ 三菱庭球の歩み三菱庭球同好会
  4. ^ 三菱鉱業(株)『三菱鉱業社史』(1976.06)渋沢社史データベース
  5. ^ 三菱鉱業(株)『三菱鉱業社史』(1976.06)渋沢社史データベース
  6. ^ 東京コークス(株)『東京瓦斯のコークス変遷史』(1966.06)渋沢社史データベース
  7. ^ 三菱鉱業(株)『三菱鉱業社史』(1976.06)渋沢社史データベース
  8. ^ 戦前期の日本企業における社会貢献活動愛知大学経営総合科学研究所叢書 46
先代
三谷一二
三菱鉱業会長
1936年 - 1942年
次代
会長制廃止