江藤哲蔵
江藤 哲蔵(えとう てつぞう、明治5年8月3日[1](1872年9月5日) - 大正8年(1919年)6月24日[2])は、衆議院議員(立憲政友会)。
経歴[編集]
熊本県菊池郡陣内村(現在の大津町)に江藤禎治の長男として生まれる。14歳で家督を相続する[3]。神田共立学校で英学を学んだ後、1899年(明治32年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した[4]。
1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
1908年(明治41年)から翌年にかけて欧米諸国を視察[4]。
1912年、第11回衆議院議員総選挙で再選。第12回・第13回と連続当選を果たした。その間、第1次山本内閣では逓信省勅任参事官に任命された。[5][1]
哲蔵は政友会で原敬と並ぶ領袖だった松田正久の側近で、松田の死後、原敬総裁にその才幹を見込まれて大正5年3月に政友会幹事長になった。
その他、九州商業銀行取締役、隆文館図書株式会社監査役、東亜同文会幹事を務めた[2]。
父親の江藤禎治は士族、母親のシツは同郷の大地主で多額納税者の江藤武七郞の五女[3][6]。 妻のリン(明治11年生まれ)は外山脩造の次女[7]。長女ヨシ(明治40年生まれ)のほか、小谷ハルとの間に庶子の勉(大正8年生まれ)がいる[8][3]。
君は熊本縣士族江藤禎治の長男にして明治五年八月三日を以て生れ同十九年十二月家督を相續す同三十二年東京專門學校行政科を卒業し衆議院議員に當選すること二回現に政友會所屬代議士たり政界に馳驅する多年同四十年日露事件の功に依り勳四等に叙せられ後歐米に漫遊す山本内閣成立の後官制改革に伴ひ擧げられて遞信省勅任參事官に任じ正五位に叙せられ内閣瓦壞と共に之を辭す嘗て九州商業銀行取締役たり
家族は尚ほ長女ヨシ(明四〇、一生)あり
妹ミツル(同八、七生)は大分縣人佐藤文彦弟武彦に同ヤスエ(同一二、五生)は熊本縣士族田尻寅雄に姉ニキ(慶應三、一一生)は同縣平民池松豐記に嫁せり[9]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 細井肇 『現代日本の政治家』国光社、1916年。
- 人事興信所編 『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 『第一回乃至第十九回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1936年。