毛光翔

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毛光翔
プロフィール
出生: 1893年光緒19年)[1]
死去: 1947年民国36年)11月1日
中華民国の旗 中華民国貴州省赤水県
出身地: 貴州省遵義府桐梓県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 毛光翔
簡体字 毛光翔
拼音 Máo Guāngxiàng
ラテン字 Mao Kuang-hsiang
和名表記: もう こうしょう
発音転記: マオ グアンシアン
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毛 光翔(もう こうしょう)は中華民国の軍人。群麟。貴州軍(黔軍)、桐梓派の指揮官。義兄(妻の兄)は桐梓派の指導者である周西成

事跡[編集]

貴州講武学堂第1期を卒業。以後、毛光翔は義兄の周西成に追随して各地を転戦し、次第に昇進していった。1923年民国12年)、周が靖黔軍を結成した頃に、桐梓派内部で「群(毛光翔)、紹(王家烈)、佩(黄道彬)、用(猶国才)」の後継序列が定まる。すなわち、毛が序列第1位となった。

1924年民国13年)、毛光翔は川南辺防総司令に任ぜられている。1927年(民国16年)、周西成が国民革命軍第25軍軍長兼貴州省政府主席に任ぜられると、毛は第25軍副軍長に任命される。

しかし、毛は同年8月の雲南遠征において、総司令官の立場でありながら妾の下で数日過ごして指揮を放棄し、そのために雲南軍に敗北するという大失態を犯している。1929年(民国18年)5月、雲南省政府主席竜雲が雲南軍を貴州に送り込んでくると、周の指揮の下、毛はこれを迎撃したが敗北し、周も戦死した。

その後、雲南軍は李燊を貴州省政府主席に擁立したが、まもなく雲南省の内戦のために引き上げ、李は孤立状態となる。毛光翔ら桐梓派の軍人たちは、反撃に転じ、李を下野に追い込んだ。同年10月、毛が新たに貴州省政府主席兼討逆軍第18路軍総指揮に就任し、いったんは桐梓派の貴州支配が復活する。

しかし、毛光翔は過去の大失態などもあって人望が薄く、桐梓派内で序列第2位とされていた王家烈が次第にその地位を伺うようになった。王は蔣介石と密かに結んでその軍事支援を受けると、1932年(民国21年)、クーデターを起こす。同年3月、情勢が不利になった毛は下野を宣言し、王が後任の省政府主席となった。

それでも毛光翔は、王家烈のクーデターに不満を抱いていた序列第4位の猶国才ら他の桐梓派指揮官たちと結んで、王への反撃を開始する。12月、今度は王が下野に追い込まれ、猶が代理ではあるが後任の省政府主席となる。しかし、毛・猶らは各指揮官同士で主導権争いを展開し、まとまりがなかった。王はそこを衝く形で逆襲を開始し、翌年4月、猶から省政府主席の地位を奪回している。猶はその後も一定の地位を保持して王を牽制したが、毛はこれを最後に完全に軍事・政治から引退した。

1947年(民国36年)、死去。享年55。

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  1. ^ 于翔麟「毛光翔小伝」による。徐友春『民国人物大辞典 増訂版』202頁は、1896年(光緒22年)とする。

参考文献[編集]

  • 于翔麟「毛光翔小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 貴州軍閥史研究会ほか『貴州軍閥史』貴州人民出版社、1987年。ISBN 7-221-00240-1 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
李燊
(臨時政務委員会主席)
貴州省政府主席
1929年10月 - 1932年3月
次代
王家烈