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横須賀城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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横須賀城
静岡県
別名 松尾城、両頭城
城郭構造 平城
天守構造

3重4階(1578年築)望楼型 または層塔型 四〇坪余であり 大戸が二つ 窓戸が六三枚であったと記録されている。 大戸が二つなので、天守南東側と土塁が半分架かっていた天守(土塁上二階)西側にあったとされる

天守台上之門の名称も記録されている これは天守への登閣門があったとなる
築城主 大須賀康高
築城年 天正6年(1578年
主な城主 大須賀氏渡瀬繁詮大須賀氏、西尾家、他
廃城年

明治元年(1868年

その後、城の払い下げが行われ明治六年1873年に天守をはじめとする建物、堀、樹木が取り壊された
遺構 石垣、曲輪、水堀、移築櫓他
指定文化財 国の史跡
位置 北緯34度41分8.46秒 東経137度58分17.64秒 / 北緯34.6856833度 東経137.9715667度 / 34.6856833; 137.9715667
横須賀城の位置(静岡県内)
横須賀城
横須賀城
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横須賀城(よこすかじょう)は、遠江国城東郡横須賀静岡県掛川市西大渕)に戦国時代から江戸時代にあった日本の城(平城)。国の史跡

概要

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西尾忠方の書による『横須賀城址』の碑

天正6年(1578年)、武田家高天神城を締め付ける付城群の中核として、徳川家康大須賀康高に命じて築いた城郭である。大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎える。

西尾家歴代の藩主のなかで忠尚は名君の誉れ高く、若年寄を務め5千石加増され、都合3万5千石になり、老中も務めている[1]

城郭の特徴

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横須賀城の特徴は他に類を見ない、天竜川より運ばれた玉石垣を用いた築城法である。天守閣は三層四階、または四層四階であった[2]宝永地震のため湊が隆起してしまい、用水路を作ってしのいだ[3]

遺構

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横須賀城跡公園の航空写真(1988年)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成
横須賀城の玉石積み

石垣、堀、土塁などが残り、現在公園として整備されている。国の史跡に指定されている[4]。また、不開門が城跡の北西にある撰要寺に、町番所が市役所大須賀支所北側に、それぞれ移築され現存している[1][2]。これらのうち、横須賀城のしゃち瓦と鬼瓦は、掛川市文化財に指定されており、恩高寺に残されている。[5]。このほか、袋井市油山寺には旧御殿の一部が移築されている。

歴代城主

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  1. 大須賀康高(1580年 - 1588年)
  2. 大須賀忠政(1588年 - 1590年)
  3. 渡瀬繁詮(1590年 - 1595年)
  4. 有馬豊氏(1595年 - 1600年)
  5. 大須賀忠政(1601年 - 1607年)
  6. 大須賀忠次(1607年 - 1615年)
  7. 徳川頼宣(1615年 - 1619年)
  8. 松平重勝(1619年 - 1620年)
  9. 松平重忠(1621年 - 1622年)
  10. 井上正就(1622年 - 1628年)
  11. 井上正利(1628年 - 1645年)
  12. 本多利長(1645年 - 1682年)
  13. 西尾忠成(1682年 - 1713年)
  14. 西尾忠尚(1713年 - 1760年)
  15. 西尾忠需(1760年 - 1782年)
  16. 西尾忠移(1782年 - 1801年)
  17. 西尾忠善(1801年 - 1829年)
  18. 西尾忠固(1829年 - 1843年)
  19. 西尾忠受(1843年 - 1861年)
  20. 西尾忠篤(1861年 - 1868年)

この節出典:[1]

脚注

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  1. 1 2 3 『大須賀町誌』大須賀町誌編纂委員会、1980年3月25日。
  2. 1 2 小和田哲男『中世城郭史の研究』(清文堂出版、2002年)
  3. 加藤理文編著『静岡県の歩ける城70選―初心者から楽しめる名将ゆかりの城跡めぐり―』(静岡新聞社、2016年)
  4. 『史跡横須賀城跡 史跡等活用特別事業報告書』静岡県大須賀町教育委員会、1999年3月31日。
  5. 市指定文化財一覧表”. 掛川市. 2020年5月11日閲覧。

外部リンク

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