樛斿

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樛 斿(きょう ゆう、生没年不詳)は、中国戦国時代中期の政治家相邦を務めた人物。

略歴[編集]

恵文王四年(紀元前334年)、天子である顕王は秦の恵文王に胙を贈った。秦は新たな官職として相邦[1]を設立し、樛斿がその地位に就いた。

恵文王十年(紀元前328年)、張儀が替わって相邦の職に就き、樛斿は離任した。

恵文王改元三年(紀元前322年)、張儀が秦の使者としてに赴き魏の宰相に任ぜられ、樛斿が張儀に代わって相邦の地位に就いた。樛斿は魏に入った張儀と協力して連衡策を説き、秦と魏の同盟を成立させた。

恵文王改元七年(紀元前318年)、楽池が相邦に就任し樛斿はその職を免ぜられた[2]

関連人物[編集]

  • 嫪毐 - 樛斿の末裔という説がある[3]

参考文献[編集]

  • 中国歴代宰相大詞典

脚注[編集]

  1. ^ の成立後に高祖劉邦の諱を避け相国に改名
  2. ^ 出土した樛斿戟の記載による
  3. ^ 嫪毐本是名門之後?