昌文君

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昌文君(しょうぶんくん、紀元前270年代[1] - 紀元前226年)は、中国戦国時代の将軍または政治家。頃襄王の公子という[1]。名は[2]

生涯[編集]

秦の人質であった兄の太子完黄歇の機転で昭襄王に無断で楚に帰国した。激怒した昭襄王は黄歇の死を賭した態度に感服したが、代わりに太子完の人質時代に、頃襄王の側室がもうけた公子顛を人質として差し出したことで、丸く治まったという[1]

紀元前238年嫪毐が背くと、甥[1]昌平君(公子啓)と共に鎮圧した。この功績により、秦王政から昌文君に封じられ[3]、秦の左丞相となる。また、相国だった呂不韋は罷免された。

紀元前226年平輿にて死去した。1975年中華人民共和国湖北省孝感地区雲夢県睡虎地にて発見された竹簡群の『睡虎地秦簡[4]によると、楚の国人たちに昌文君を楚王に擁立する動向があったと記されている。

子女[編集]

  • 不詳

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 李開元の『末代楚王史跡鉤沈』
  2. ^ 秦のに刻まれた銘文より
  3. ^ 銭穆『国史大綱』p121.
  4. ^ 喜と呼ばれる秦の官吏の私物であったとされる

史料[編集]

  • 『睡虎地秦簡』(
  • 史記』(司馬遷
  • 『国史大綱』(銭穆
  • 『末代楚王史跡鉤沈』『秦謎』(李開元)

登場作品[編集]

秦王・嬴政の後見人で、嬴政の為に武官から文官に転進したという経歴で、かつては旧・秦国六大将軍の一人・王騎の戦友だったという設定になっている。