昌文君

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

昌文君(しょうぶんくん、紀元前270年代[1] - 紀元前226年)は、中国戦国時代の武将。頃襄王の公子という[1]。名は[2]

経歴[編集]

秦の人質であった兄の太子完黄歇の機転で昭襄王に無断で楚に帰国した。激怒した昭襄王は黄歇の死を賭した態度に感服したが、代わりに太子完の人質時代に、頃襄王の側室が儲けた公子顛を人質として差し出したことで、丸く治まったという[1]

歳月は流れて、秦王政9年に、昌文君に封じられた[3]

紀元前238年嫪毐が背くと甥[1]昌平君(公子啓)と共に鎮圧した。この功績により秦の左丞相となる。また相国だった呂不韋は罷免された。

紀元前226年、平輿にて死去した。『睡虎地秦簡』によると楚の国人たちは昌文君を楚王に擁立する動向があったと記されている。

子女[編集]

  • 不詳

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 李開元の『末代楚王史跡鉤沈』
  2. ^ 秦のに刻まれた銘文より
  3. ^ 銭穆『国史大綱』p121.

史料[編集]

登場作品[編集]