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桃園神社

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桃園神社
桃園神社の拝殿
桃園神社の拝殿(現・桃園市忠烈祠)
所在地 台湾新竹州桃園郡桃園街大檜渓
位置 北緯25度0分22.6秒 東経121度19分31秒 / 北緯25.006278度 東経121.32528度 / 25.006278; 121.32528 (桃園神社)座標: 北緯25度0分22.6秒 東経121度19分31秒 / 北緯25.006278度 東経121.32528度 / 25.006278; 121.32528 (桃園神社)
主祭神 北白川宮能久親王、大国魂命、大己貴命、少彦名命、豊受大神、明治天皇(1945年以前)
天照大神、大国主命、豊受大神(2022年以降)
社格等 県社
創建 1938年(昭和13年)
地図
桃園神社の位置(台湾内)
桃園神社
桃園神社
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桃園神社(とうえんじんじゃ)は、日本統治時代の台湾新竹州桃園郡桃園街大檜渓の春日山(現・桃園市桃園区の虎頭山(中国語版))にあった神社で、1938年(昭和13年)9月23日に創建された。創建当初は無格社であったが、1945年(昭和20年)4月12日に県社へ昇格した。第二次世界大戦後は忠烈祠(中国語版)(桃園忠烈祠(中国語版))として転用された。

日本統治時代の外地における神社建築の中で保存状態が最も完全なものの一つとされ、本殿・拝殿・参道・社務所など主要施設が現存することなどから、1994年(民国83年)2月15日に遺構全域が台湾の国家三級古蹟(現在・桃園市定古蹟)に指定された。

現在は「桃園忠烈祠と神社文化園区」と改名され、忠烈祠以外の空間は桃園市の委託で民間会社の第三次創業股份有限公司が運営し、旧社務所を拝殿に転用して桃園神社としての運営を再開している。

歴史

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日本統治時代

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1930年代の国家総動員体制を背景として、1934年(昭和9年)9月18日に台湾総督府は「神社建設要項ニ関スル件」を発表し、「一街庄一社」政策(街庄は台湾の行政区画)が推進された。

1936年(昭和11年)7月、桃園郡守の宮野為長が桃園神社創建計画の立案に着手した。同年8月17日、元・桃園街長の簡朗山が『台湾日日新報』に〈桃園神社建設喜賦〉を寄稿した[1]。

満場議案賛成頻、寄附無論富与貧。 共喜桃園神社建、国民日日振精神。

同年11月、台湾神社の櫻井重夫に鎮座地の選定を依頼し、大檜渓の小丘に決定した[2]。この小丘はもともと無名であったが、日本の奈良の春日山に似ていたことから、春日山と名付けられた[3]。

桃園郡守の谷義廉が新竹州知事の赤堀鉄吉の承認を受け、1937年(昭和12年)1月7日に参道の整備を開始した[2]。設計・監造は桃園郡役所の庶務係吏員であった春田直信が担当した[4]。同年9月6日、地鎮祭が行われた[2]。

1938(昭和13年)1月、桃園郵便局から桃園神社へ至る道路の途中にあった木造の東新橋の腐朽が著しかったことから、台湾神社の旧明治橋を移築し、昭和橋が架けられた[5]。同年3月には、参道に玉石と砂利による舗装を行う奉仕が行われた[6]。

同年6月10日、上棟式が行われた[7]。7月中旬、高さ35メートルの大鳥居3基が寄進された。陳合発商行のものは境内に、産業組合と共栄会のものは宮前橋前に、米穀組合のものは昭和橋前にそれぞれ建てられた[8]。

同年9月23日、神殿祭、神門祭に次いで台湾神社から御霊代を迎え、夜には鎮座祭が行われた[2]。その後も10日間に渡って各種祭典・娯楽行事が催された[2]。同日、櫻井重夫が社掌に任命された。

11月3日の明治節には初めての例祭が行われた。その後も毎年、新年節、紀元節、天長節、明治節などの例祭日に祭祀が行われた。

1945年(昭和20年)4月12日、社格が県社に昇格した。

戦後

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戦後、桃園神社は新竹県忠烈祠に改称した(当時はまだ桃園県はなかった)。1950年(民国39年)に桃園県忠烈祠となった[9]。日本の神はなくなり、中には鄭成功、劉永福、丘逢甲の像と反清・抗日の殉国の烈士である国民政府軍将兵の位牌が置かれた[9]。

日華断交後の1974年(民国63年)2月、国民党政府は「日本統治時代の日本の帝国主義的なものは全て取り除く」との命令を発し、それにより各地の神社が破壊された。桃園神社(桃園県忠烈祠)は住民が反対したほか、一部の学者が「神社とはいえ唐風の建物であり、中国伝統建築様式の保存ともいえる。日本による侵略の歴史的証明として残すべきである。」の論述を提出したことからそれを免れ、日本統治時代のままの姿を保った。

1985年(民国74年)、政府は忠烈祠を改築するという名分で旧神社の撤去計画を出したが、これも世論と学界の強い反対によって霧散すると、ついに保存が決まった。翌年から886万元をかけて修復を行うことなり、1987年(民国76年)1月30日に完成した。

1994年(民国83年)2月15日、国家三級古蹟に指定された。

再活用

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2016年(民国105年)、拝殿・本殿屋根の深刻な漏水から、古蹟保存のための第2期修復工事が開始。

2017年(民国106年)3月18日、修復工事が完了し、「桃園忠烈祠と神社文化園区」へ改称された[10]。

2018年(民国107年)5月18日、春田直信の子孫が出席し、桃園神社春田家寄付金・義援金贈呈式が行われた[4]。

2019年(民国108年)1月2日、民間委託方式での運営に向けた修復整備に着工し、2020年(民国109年)3月25日に竣工[11]。同年7月15日に神社園区が一般開放された。

2022年(民国111年)9月21日、受託業者が鳥取神社 (釧路市)から大国主神、天照大神、豊受大神の分霊を勧請し、絵馬掛所・祈祷頒布所・風鈴回廊などを設置したほか、入魂儀式を経た御守の販売を開始した[12]。かつては1日10人未満だった来訪者数が、平日900人・休日5000人規模となった[13]。

境内

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敷地面積は1780.4平方メートル(約5385坪)、建築面積は452.82平方メートル。木材には基本的にタイワンヒノキが用いられている。

参道

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参道

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山麓から拝殿前までの石段が現存する。長さ約100メートル超、幅約3.6メートル、路面はコンクリート製。

石灯籠

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戦後、多数が撤去されたが、1986年(民国75年)の修復工事により大型2基と小型4基が電動式で再建された。鉄筋コンクリート製。

鳥居

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創建当初は5基あったが、現存するのは五の鳥居のみ。

  • 一の鳥居:昭和橋前。米穀協会奉献。
  • 二の鳥居:宮前橋前。産業工会・共栄会奉献。戦後は「忠義門」と改称されたが、1993年の成功路三段の拡幅工事で撤去。
  • 三の鳥居:現在の成功路三段と大有路の交差点。1993年の成功路三段の拡幅工事で撤去。
  • 四の鳥居:春日山麓。
  • 五の鳥居:神社境内。桃園陳合発商行奉献。

戦後、神道の印象を払拭するため、鳥居から笠木・鳥木・額束を撤去し、柱石・柱・貫・横梁のみを残す形となった。五の鳥居は洗い出しコンクリート製の「明神鳥居」だったとされる。

現・神社文化園区

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手水舎

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屋根は切妻造の傾斜した屋根で、瓦には厚い銅瓦栩葺が採用されている。両側には精巧な彫刻の懸魚と銅製の鬼板、頭貫と桁木の間に連子を並べている。亭内にはコンクリート製の手水鉢が置かれている。

社務所

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コンクリート製の瓦の屋根は寄棟造で、地面から高く、下部には通風孔が設けられている。門の入り口には唐破風が設けられ、屋根には銅瓦柿葺の薄い瓦が葺かれている。2005年(民国94年)以降は社務所は忠烈祠文化館の事務室、営造企画センター、桃園書院として使用された。2017年(民国106年)以降は展示エリアとして参拝体験ができるようになっている。

銅馬

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青銅製で、腹部には十五葉の菊輪に桔梗紋の神紋が彫刻されていたが、現在はすでに摩耗している。基座はコンクリート製で、1986年(民国75年)に再建された。

一心六石

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桃園市南崁渓から採掘された石材が使われている。

狛犬

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創建当初は五の鳥居前にも置かれていたが、1946年(民国35年)にすべて撤去された。1986年(民国75年)に写真をもとに1対が再製作され、現在の地に安置された。

管理室

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管理人の宿舎として用いられた和洋折衷風の小型建築。2007年(民国96年)に一部が修繕され、木造の休憩展望台が増設されて、現在は販売所になっている。

東司

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トイレとして用いられた。1986年(民国75年)に再建された。

現・桃園忠烈祠

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中門

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屋根は切妻造の銅瓦で、左右の先端には鬼板、破風板と懸魚が取り付けられている。破風板は八双金物による装飾で、前後それぞれに4本の柱が立つことから八脚門とも呼ばれる。柱はすべて銅板で保護され、中央には観音開きの桟唐戸、回廊の上に伸びる連子窓がある。

拝殿

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諸殿の中で最大の建築。中央に主殿、左右に神饌所と祭器庫が設けられている。もとは祭器を保存し、祭事に楽器を演奏する場であった。主体は木製の円柱と蔀の建築で、前後8枚の門は一枚板の板唐戸で、木製の柱脚は銅製の金具による装飾が施されている。中央の金具には菊紋がある。屋根は入母屋造で銅瓦栩葺の厚い瓦が重ねられ、屋根上には千木、本懸魚、降懸魚、鰭、両端には鬼瓦や巴瓦の装飾が施されている[14]。天井は折上格天井である。室内の賽銭箱の表面は研磨処理がされ、四角は銅製の金具で包装されている。

本殿

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高台の上にある流造の建造物で、高台には亀腹があり、周囲が木材で欄干を支えている。柱には銅製の擬宝珠が丁寧に施されており、屋根は切妻造の銅箔付き屋根瓦で、屋根上には千木・鰹木の装飾を備える。大門は板唐戸で、正面門には五金菊花、スズメの足形などの模様が装飾されている。主殿の門の前には木造の階、上部には海老虹梁、正面の頭貫には蟇股がある。

瑞垣

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一重式の透塀で、左右に長さ約152センチメートルの囲いを設けている。

批判

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備考

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脚注

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  1. ↑ “智慧型全台詩知識庫” (中国語). db.nmtl.gov.tw. 国立台湾文学館. 2026年4月16日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 “虎頭山:桃園神社的前世與今生” (中国語). 健行筆記 (2022年5月2日). 2026年4月16日閲覧。
  3. ↑ 輕旅行 (2023年8月31日). “桃園神社|「春日山·風祭り」風車:迎接秋天的魅力慶典,超萌動物御神籤等你來許願” (中国語). 輕旅行. 2026年4月16日閲覧。
  4. 1 2 “桃園神社春田家寄付金・義援金贈呈式プレスリリース原稿”. 桃園市政府秘書處. 桃園市政府 (2019年1月3日). 2026年4月16日閲覧。
  5. ↑ “美観を呈す 昭和橋 神社道路に竣工”. 台湾日日新報 (第5版 ed.). 1938年1月16日.
  6. ↑ “桃園神社道 鋪装を奉仕 郡下各公学校児童”. 台湾新聞 (夕刊第3版 ed.). 1938年3月11日.
  7. ↑ 「桃園神社 十日上棟式を挙行」『台湾新聞』1938年6月8日、第12680号。
  8. ↑ 林曉薇. 〈桃園縣忠烈祠文化館文化景觀調查及資源應用計畫成果報告書〉. 桃園縣: 桃園縣政府文化局. 2007-10.
  9. 1 2 台湾における観光旅行事業史1920-1970年代 : 日本統治時代・国民党時代の政策と関連させて呉米淑 愛知学院大学 博士論文 2016-03-31
  10. ↑ “歴1年整修 桃園神社重開園”. 好房網News (2017年3月19日). 2026年4月17日閲覧。
  11. ↑ “保存古蹟活絡空間 忠烈祠神社文化園7/15開放” (中国語) (2020年5月19日). 2026年4月17日閲覧。
  12. ↑ “桃園神社引進日本神社參拜文化!拜殿、繪馬掛所全新登場 限定開賣「鳥取神社」加持御守 -- 上報” (中国語). www.upmedia.mg. 2026年4月17日閲覧。
  13. ↑ 中央通訊社 (2023年3月13日). “桃園神社供奉日本神祇惹議 廠商:與忠烈祠不同區 | 地方” (中国語). 中央社 CNA. 2026年4月17日閲覧。
  14. ↑ “Taoyuan Shinto Shrine (桃園神社)” (英語). Josh Ellis Photography (2016年12月17日). 2026年4月24日閲覧。
  15. 1 2 “桃園神社に迎えた日本の神の分霊 批判噴出で奉遷、再び日本へ”. 台湾: 中央社フォーカス台湾. 2023年3月14日.

外部リンク

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