柳本春重

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柳本春重
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文8年以降
別名 与三郎(通称)、修理進、修理亮
主君 柳本賢治
氏族 鴫野氏柳本氏
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柳本 春重(やなぎもと/やないもと はるしげ)は、戦国時代武将柳本賢治から柳本姓を賜る以前は鴫野与三郎鴫野修理進と名乗っていた[1]

概要[編集]

春重は本来は鴫野氏の出身であり、柳本賢治の家臣として活動していた。大永7年(1527年)2月16日には鴫野与三郎の名前で活動していたことがわかる。その後、同年7月3日には鴫野修理進春重と通称を改めている。そして、享禄元年(1528年)5月25日には柳本修理亮春重を名乗っており、これ以前に柳本姓を賜っている。柳本賢治柳本甚次郎が死去したのちも、天文8年(1539年)までは活動が確認できる。春重が柳本姓を名乗ったのは、春重の家格を上昇させる目的であったと考えられる[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 馬部隆弘「堺公方」期の京都支配と柳本賢治」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)
  2. ^ 馬部隆弘「堺公方」期の京都支配と柳本賢治」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)

参考文献[編集]

  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6 
    • 「「堺公方」期の京都支配と柳本賢治」」 - 初出:『ヒストリア』第247号、2014年。 

関連項目[編集]