東根景佐

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東根景佐
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 不明
死没 元和6年12月1621年1月
別名 源右衛門、里見景佐、里見薩摩
氏族 東根氏
父母 父:不明、母:不明
東根親宜

東根 景佐(ひがしね かげより)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将最上氏の家臣。東根氏8代当主。出羽国東根城主。

生涯[編集]

天正9年(1581年)、最上義光の調略に応じて東根城主である東根頼景を殺害して、城主となった。 景佐は元は里見氏を称しており、東根氏との関係は不明である。

慶長出羽合戦では最上義光から「今度の奉公、比類なきに依り」と、東根支配を認める宛行状を与えられた。 『最上義光分限帳』によると、東根一万二千石を領知していた。

子の東根親宜最上家親から偏諱を賜る他、最上義光の四女禧久姫を妻として迎えるなど、景佐が重臣としての処遇を受けていたことが伺える。

元和6年(1620年)12月に死去した。 遺言状では「もかミの御国三年と此分ニあるましく候」(最上家はもう三年も保たないだろう)と最上家中の内紛を憂いている。

出典[編集]