有為

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有為(うい、: saṃskṛta)とは、(1)さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を意味する仏教用語。有為の(ダルマ)のことを有為法(ういほう、: saṃskṛta-dharma)と呼ぶ。これに対し、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立しない現象のことを無為(むい、: asaṃskṛta)と呼ぶ。また、(2)人為的なあり方を指す老荘思想の用語でもある。

原始仏教[編集]

仏教においては、われわれの生存している世界は、すべて生じては変化し、やがて滅していく諸現象・諸存在によって成り立っており、そうした諸現象・諸存在が無常であるとの考え方をとっている[1]諸行無常の「」(ぎょう、: saṇkhārā)も、時に有為と訳される[2]

このようななか、古くは阿含経から[3]、世界の一切を五蘊に分けて示し、これら五蘊が仮に集合して人間が存在している(五蘊仮和合)と説き、五蘊の無我を表す考え方[4]が、原始仏教以降存在している。この五蘊はあくまで有為法であり、非現象である無為法は含まれていない。原始仏教においては、存在とは自己存在を中心として捉えられており、本質的なもの・理想の真理である無為法は、現象としての自己存在をまったく否定したところに現出する、次元を異にしたものと考えられていたためである[5]

説一切有部[編集]

説一切有部は、72種の有為法と3種の無為法の(合計75法の)体系を立てた[6] 。72種の有為法は、

(1)(しき) - 物質的なものを表す要素(11種)。
(2)心(しん) - 精神的・心理的なものを表す(1種)
(3)心所(しんじょ) - 心の作用(46種)。
(4)心不相応行(しんふそうおうぎょう) - 物でも心でもないものの関係・性能を表す(14種)。

から構成される[7](この4要素と「無為」を合わせて五位と呼ぶ。詳しくは五位七十五法も参照)。

これらの有為法は、下記の性質をもつとされている。

  • 三世に実有(さんぜにじつう) - 過去・現在・未来いずれの領域においても存在する。
  • 刹那滅(せつなめつ) - 未来の領域から現在の時点に生起し、次の瞬間には過去の領域に滅し去る[7]

多種多様な有為法がそれぞれ互いに多種多様な因果関係を持ちつつ、未来から現在に現れ、現在から過去へ過ぎ去る、という無数のの流動生滅と離合集散織りなすところこそ、われわれの生きる有為転変の世界である。そして、その有為転変の世界の因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為である[8] とし、そのような諸行無常の世界に繰り広げられるわれわれの迷いの生存の現実と、その迷いを脱却して悟りに向かう修行の道程とを説一切有部は標式的に説き明かそうとした[9]

唯識思想[編集]

瑜伽行唯識学派唯識思想では。上記の五位説を取り入れているものの、五位百法とよばれる100種の要素()を設けている[10]。ここで、説一切有部がすべての存在を実有と考えたのに対し、唯識思想では、あらゆる存在を心(前節(2))および心所(前節(3))のなかに埋めつくし、物質(:前節(1))が外界に実在することを否定した[10]。また、不相応行(前節(4))を、精神活動の上に仮に概念設定した二次的存在に過ぎないとみなした[11] [12]

中観派[編集]

中観派の祖である龍樹[13] は、著作中論において「(生と住と滅とが成立しないがゆえに)有為は存在しない。また有為が成立しないがゆえにどうして無為が成立するであろうか」(第7章第33詩[14])と、有為および対義語の無為をともに否定した[15]。中観派は、上記の有為・無為のほか、見る・聞くなどの認識能力(六根[16])や物質的要素・感受作用など(色受相行識などの五蘊[17])などの成立を否定するなかで、肯定と否定、有と無というような2つのものをともに離れたの思想を説き明かそうとした[13]

老荘思想[編集]

老荘思想においては、「無為」の対比として用いられる言葉であり、人為的なあり方を意味する[1]

関連事項[編集]

  • いろは歌手習いの手本として広く受容された文章)[18]の後半部「有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」は「如意珠の半偈」といわれ、悟りの境界を読んだものである[19][20]。妄想分別がはびこって、(とん)(じん)(ち)の三毒の中にさまよっており容易に越されないさま[21] を、有為の奥山と表現している。
  • 四字熟語の「有為転変」は、世の中の全てのもの(有為)がたえず変化して、しばらくの間も同じ状態に留まることはないこと[22]をさす。

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 54.
  2. ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 451.
  3. ^ 山田・蓑田 1989, p. 105.
  4. ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 261.
  5. ^ 横山 1976, p. 98-99.
  6. ^ 櫻部 1981, p. 25.
  7. ^ a b 櫻部 1981, p. 26.
  8. ^ 櫻部 1981, p. 27.
  9. ^ 櫻部 1981, p. 27-28.
  10. ^ a b 横山 1976, p. 100.
  11. ^ 横山 1976, p. 101.
  12. ^ なお、「無為」についても、あらゆる存在は精神を離れて存在しないという一切不離識の立場により、心・心所の領域に入れられるとみなした(横山,1976,p=101)。
  13. ^ a b 中村 2002, p. 16.
  14. ^ 中村 2002, p. 340.
  15. ^ なお、このような「甲が成立するならば乙も成立するはずであるが、甲が成立しないならば乙も成立しない」という(中村,2002,p=192)命題は、有為と無為は互いに排除する関係上、有為が成立しないとしても無為は成立するかも知れず、形式論理学的に不正確なもののあることを、「国訳中論」解題の中で宇井伯寿が指摘している(中村,2002,p=191)。ただし、中観派の主張する縁起は相依性(そうえしょう:相互依存)の意味であると考えられて(中村,2002,p=178)いるため、暗々裡々「乙が成立するならば甲も成立する」という命題を前提として持っているから必ずしも誤謬とはいえない(中村,2002,p=192)と、仏教学者の中村元は述べている。
  16. ^ 中村 2002, p. 329.
  17. ^ 中村 2002, p. 331.
  18. ^ 大矢 1918, p. 59.
  19. ^ 大八木 1916, p. 20.
  20. ^ なお、前半部は「無常の半偈」といわれ、迷いの有様を詠んだものといわれる。
  21. ^ 大八木 1916, p. 59.
  22. ^ 大辞林 第三版

参考文献[編集]