日根野弘佐

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日根野 弘佐(ひねの ひろすけ、生年不詳 - 慶安2年5月27日1649年7月6日))は江戸時代旗本。通称は内記、長右衛門。日根野弘勝の子。母は松永久秀娘。室は遠藤弼基娘。子に日根野弘方がいる[1]

慶長19年(1614年)大坂冬の陣の際には牢人の身であったが、松倉重政に属して参陣。12月4日、竹束を付けようとしたときに鉄砲に当たって負傷している。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には、松平忠明に属し、5月6日の道明寺の戦いで、国分表において豊臣方と戦い傷を負うが、翌7日の戦でも力戦する[1]

元和3年(1617年)、将軍・徳川秀忠に謁見し、翌元和4年(1618年)12月、徳川将軍の馬廻である御書院番に列し、翌元和5年(1619年)12月には蔵米300俵を与えられる。寛永3年(1626年)、後水尾天皇二条城への行幸の際に上洛した徳川秀忠に付き従った[1]

寛永10年(1633年)2月7日、200石を加増され、下総国香取郡埴生郡に知行地500石を給わる。正保2年(1645年)8月5日、江戸の町に番屋を置いた際には、命を受け訴訟・裁判を務めた。慶安2年(1649年)5月27日死去。法名は宗圓。渋谷の祥雲寺に葬る。のち代々葬地とする[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 寛政重修諸家譜 第6輯』(国民図書、1923年)p.139、巻第九百八十五