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戸田重貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸田 重貞
時代 戦国時代後期
生誕 不明
死没 永禄7年11月12日1564年12月15日[1][2]
戒名 円通院一源全心[1]
墓所 全久院[1][3]
官位 主殿助[4][5]
主君 今川義元氏真徳川家康
氏族 戸田氏
父母 父:戸田宜光[6][3]
母:玉晧院珠峰総球[注釈 1][8][2]
兄弟 重貞忠重[3]
あり
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戸田 重貞(とだ しげさだ)は、戦国時代武将三河国渥美郡仁連木城戸田氏の15代当主。

生涯

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戦国時代に渥美半島で勢力を持った戸田氏の嫡家に生まれ、父宜光の隠退に従って二連木城主を相続する。当初は駿河国戦国大名今川氏に従い、石ヶ瀬川の戦いでは今川方の将として水野信元と戦った[9]

当時三河国人の今川氏への人質は吉田城に置かれており、重貞の母もまた同城にあった。永禄7年(1564年)重貞は吉田城主の大原資良と敢えて親交を結び、しばしば吉田城を訪ねてその油断を誘った。果たして城兵らも重貞の来城を怪しまなくなった5月12日、普段より持ち入れていた具足笈に母を入れて無事に脱出させ、かねてより通じていた徳川家康の麾下に参じ、続く吉田城攻撃に加わった。これらの功により旧領1,000貫の安堵を受けた上、新たに2,000貫を加えられた。また戸田氏の徳川氏従属により、東三河の国人衆はこぞって家康に降るようになったという[10][3]

同年11月2日、再度の吉田城攻撃に加わったが、この戦いで戦死。重貞には懐妊中の妻がおり、隠居の父宜光もその子への家督を希望したようだが、家康の命により弟の忠重が戸田氏の家督を継承した[11][3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 出身氏族・俗名は不明[7]

出典

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  1. ^ a b c 飯沼 1925, p. 8.
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, p. 319.
  3. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』, pp. 318–319.
  4. ^ 飯沼 1925, p. 7.
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』, p. 318.
  6. ^ 飯沼 1925, p. 10.
  7. ^ 飯沼 1925, p. 50.
  8. ^ 飯沼 1925, pp. 5–10.
  9. ^ 飯沼 1925, pp. 6–7.
  10. ^ 飯沼 1925, pp. 7–8.
  11. ^ 飯沼 1925, pp. 8–9.

参考文献

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  • 飯沼源次郎 編『松本六万石史料』 中巻、明盛村、1925年。 
  • 寛政重修諸家譜』 14巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0218-5