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平仲明信

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平仲 明信ひらなか あきのぶ1963年11月14日 - 本名は平仲 信明ひらなか のぶあき)は。沖縄県島尻郡具志頭村出身の元WBA世界スーパーライト級チャンピオン。沖縄県立南部農林高等学校時代にインターハイで優勝。日本大学農獣医学部時代にはロサンゼルス五輪にも出場しベスト8。元日本フェザー級王者で夭折した平仲信敏は弟。沖縄ボクサーの系譜では初めて、地元沖縄のジム(琉球ボクシングジム)から世界王者となった。

テレビや大手ジムなどの背景がない個人の力で世界戦の交渉テーブルに臨み、ボクサーである彼自身が外国語を交えて相手と向き合い、リングの上と下とで汗を流した結果、世界挑戦実現にこぎつけた珍しいタイプのボクサー。その不思議な体験は『ボクサー回流 平仲明信と「沖縄」の10年』(1997.山岡淳一郎/文芸春秋)に詳しい。

地元判定に泣いた初挑戦

アマチュア戦績52戦43勝37KOを記録し鳴り物入りでプロデビューした平仲は、最短キャリアの4戦目で田名部雅寛を6ラウンドKOに仕留めて日本王座に着いた。しかしそこからは不遇の日々が続くことになる。十二分に世界へ挑戦する実力を持ちながらも、経済的なバックに乏しかったために中々世界戦は組んでもらえなかった。世界ランキング1位をキープしたまま、いつしか日本王座の防衛記録は9に届いていた。

1989年4月29日、ついに世界初挑戦が実現。イタリアに渡り、ファン・マルチン・コッジアルゼンチン)の持つWBA世界ジュニアウェルター級王座に挑む。イタリアはコッジの祖父母の故郷であり、平仲にとっては敵地も同然だった。「ラディゴ(鞭)」と形容されるコッジのしなやかなパンチに苦戦したが、平仲も自慢のハード・パンチを爆発させ、3回には二度のダウンを奪ってみせた。しかし、レフェリーの露骨な地元贔屓も手伝って、結局判定負け。

強すぎるが故の試合枯れ

負けたとは言え、世界ランキング1位をキープしたままの平仲は再び世界挑戦へのチャンスを待ち続けた。しかし中々チャンスは訪れない。要するに強すぎてチャンピオンからも敬遠されることになったのだ。試合も無いまま、いたずらに日々を過ごすことになる。

92秒の世界獲り

1992年4月10日メキシコシティフリオ・セサール・チャベスのセミファイナルとして世界戦が実現した。相手はプエルトリコの強打者エドウィン・ロサリオ。KO決着必至の好カードだったが、予想は平仲の絶対不利だった。しかしゴングと同時に平仲は怒涛のラッシュ。あっという間にロープに詰めるとチャンピオンを滅多撃ちにした。立ったまま白目をむいて失神したチャンピオンを見てレフェリーは即座に試合を止めた。この間わずか92秒。このKOタイムは同階級の世界戦における最短KOタイムとして今も残っている。

不覚の一撃に散る

紆余曲折の末、手にしたベルトは1992年9月9日、初防衛戦で格下のモーリス・イースト(フィリピン)に11回TKO負けで失うことになった。優勢に試合を進めながらも、若い挑戦者の不覚の一撃に沈んだ。試合後の検査で脳内出血が発覚し、引退せざるをえなくなった。

引退後は、沖縄県豊見城市で株式会社平仲の代表取締役及び平仲ボクシングスクールジムを経営し、後進の育成に励んでいる。 また正道会館にてボクシング指導も行っていた。故アンディ・フグが生前K-1グランプリ開幕前に沖縄合宿をしていたことでも知られている。

最終戦績は22戦20勝(18KO)2敗。

前王者
田名部政寛
第19代JBC世界スーパーライト級王者

1986年1月9日 - 1988年7月21日(返上)

次王者
北島義文
前王者
エドウィン・ロサリオ
第32代WBA世界スーパーライト級王者

1992年4月10日 - 1992年9月9日

次王者
モーリス・イースト

関連項目

外部リンク

公式ウェブサイト