山川興行部
山川興行部(やまかわこうぎょうぶ、1914年 設立 - 1917年 活動休止)は、かつて存在した大阪の映画会社である。「天然色活動写真」(天活)の創業者のひとりである山川吉太郎が設立した映画配給会社で、天活の関西の興行を委任された。一時、映画の製作も行った。
略歴・概要
[編集]1914年(大正3年)3月17日、東京の小林喜三郎の「常盤商会」と大阪の山川吉太郎の「東洋商会」が協力して、「カラー映画」の製作・配給をすべく創立した天活だが、同年9月、小林も山川も一度辞職し、天活の興行権を東西に分けて委任されるべく、小林は「小林商会」を設立し、山川が設立したのがこの「山川興行部」であった[1]。
どちらもそれぞれ独自の映画製作や「連鎖劇」興行を行ったが、小林商会が天活から多くの現代劇の俳優を引き抜いたのに対し、山川はあらたな人材を発掘、製作と興行を打った。
また同時期に、「天活」での活動に平行して山川は大阪で一大事業を行っていた。「ミナミの大火」(1912年1月16日)被災の2年後の1914年5月、南海電気鉄道社長に声をかけられ、現在の千日前通にあたる電車通りに新しくできた「千日前交差点」の南西隅に、劇場・演芸場・レジャーの殿堂「楽天地」を建設した[2]。同年7月にオープンし[3]、大盛況を極めた。「山川興行部」製作の映画もこの楽天地で上映された。
1917年になると小林商会はまるでライヴァルであるかのように「天活」に挑戦してきた[4]が、1917年内に小林商会は倒産、「山川興行部」も興行に専念した。山川自身は「天活」に復帰し、「天活」が1916年に建設、開所した大阪郊外の「天然色活動写真小阪撮影所」(現在の東大阪市)を稼動させ、「山川興行部」で製作したような映画を、同じ俳優たちで、「天活大阪作品」として製作していった。
フィルモグラフィ
[編集]- 1917年製作作品[5]
- 春の辰巳 ※1月1日、浅草日本館ほか
- 曙の歌 ※1月9日、大阪楽天地ほか
- 出演村田正雄、熊谷武雄、花園薫、原田好太郎、桜井武夫、東猛夫、志賀靖郎
- みだれ丁字横櫛お辰 ※1月9日、大阪敷島倶楽部ほか
- 文明の復讐 ※1月19日、大阪楽天地ほか
- 出演村田正雄、熊谷武雄、花園薫、原田好太郎、桜井武夫、東猛夫、志賀靖郎
- かげひなた ※2月1日、大阪楽天地ほか
脚注
[編集]- ^ 田中純一郎『日本映画発達史〈1〉活動写真時代』(中央公論社、1968年)の記述を参照。
- ^ Wikipedia「楽天地 (大阪)」の記述を参照。
- ^ Wikipedia「日本ドリーム観光」の記述を参照。
- ^ Wikipedia「天然色活動写真#分裂、そしてアニメ」の記述を参照。
- ^ 日本映画データベースの「1917年 公開作品一覧 312作品」を参照。