尼子政久

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尼子政久
時代 戦国時代
生誕 長享2年(1488年
明応3年(1494年)とも)
死没 永正10年(1518年)または15年9月6日?[1]
改名 又四郎[1](幼名)→政久
戒名 不白院殿花屋常栄大居士[1]
墓所 島根県松江市八雲町・常栄寺境内
官位 民部少輔[1]
主君 尼子経久
氏族 宇多源氏佐々木氏流尼子氏
父母 父:尼子経久[1]、母:吉川経基
兄弟 政久国久[1]塩冶興久[1]
いとう(北島氏[1])、千家氏[1]
宍道久慶[1]、竹堂利賢大和尚
正室:山名兵庫頭または山名兵庫介娘[1]
側室:野村諸親
松田誠保[1]、又四郎(夭折)、詮久[1]

尼子 政久(あまご まさひさ)は、戦国時代武将尼子経久の嫡男。

生涯[編集]

父・経久は尼子氏の戦国大名としての基盤を整えた名将であるが、政久も父に劣らず智勇に優れた武将であった。また、笛などを嗜む教養人であり、時の後土御門天皇からもその文才を高く評価されている。経久が出雲統一を成し得たのは自身の優秀さだけではなく、嫡男の政久における才能によるところも大きい。名前の「政」の字は、父・経久同様に元主君京極政経より偏諱を受けたものである。

永正15年(1518年)、尼子氏の勢力拡大を恐れた桜井宗的磨石城にて反旗を翻した。経久は政久を総大将とした軍勢を派遣して磨石城の一気攻略を目指したが、堅城であったために尼子の大軍をもってしても容易には落ちなかった。しかも、長期戦の様相を呈し始めたため、尼子軍内部で厭戦気分が流れ始めた。政久は得意の笛の音をもって味方の兵を鼓舞し、磨石城を激しく攻め立てたが、城兵側が笛の音が聞こえるほうに向かって矢を放ち、一本が政久の喉に当たり即死した。享年26[1]

死後[編集]

経久は将来を期待していた政久の死を悲しむと同時に、復讐として次男・国久に命じて磨石城を激しく攻めさせた。城兵は降伏すら許されず、宗的を初めとする全てが虐殺されたと言われている。また、経久は政久の系統が断絶することを惜しみ、政久の嫡男・晴久に家督を譲っている。

花実相の大将と賞賛された。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 今井尭 1984, p. 327.

参考文献[編集]