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大新聞と小新聞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小新聞から転送)

大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)は、明治時代初期(1870年代 - 1880年代)に行われた、新聞の二大別。知識階級を対象に政論を主体としたものを「大新聞」、庶民向けに娯楽記事を主体としたものを「小新聞」と呼んだ。後発の小新聞の方が大新聞より売れたので、大新聞も小新聞的記事を載せるようになり、小新聞も社会状況に遅れないよう論説などの記事を充実させたため、両者は次第に近付き、呼び分けも消滅した。現在の高級紙大衆紙の別に近い。

経緯

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事件を報せる新聞は、承保(1674年 - 1677年)・元禄(1688年 - 1704年)頃から、不定期に出たと言う。それが黒船の頃から盛んになり、明治となり、政府の方針と新聞の論説とが、相反することもあった。

その頃、京浜地区で政論を主張する知識階級向け新聞には、横浜毎日新聞(1870年1月(明治3年)創刊)・東京日日新聞(1872年5月創刊)・郵便報知新聞(1872年6月創刊)・朝野新聞(1874年9月改題新出発)・東京曙新聞(1875年改題新出発)などがあったが、かたわら、庶民向けの娯楽新聞も、読売新聞(1874年11月創刊)・平仮名東京絵入新聞(1875年4月創刊)(のち、東京絵入新聞)・仮名読新聞(同11月創刊)など続々と現れた。そして1875年末頃から、それ等に「小新聞」と言う名が付いた。政論の新聞の方は「大新聞」である。

京阪地区の小新聞には、浪花新聞(1875年12月創刊)・朝日新聞(1879年1月創刊)などがあった。

大新聞と小新聞との違いは、ほぼ、次だった(以下、「大」「小」と書く)。

  • 一面の寸法は、大がブランケット判(405×546mm)で、小はその半分のタブロイド判(273×406mm)。
  • 文章は、大が漢文口調で、小は総ルビの口語体。例えば、
紙ヲ展ベ筆ヲ握ツテ讒謗ノ律ヲ調ベ條例ノ文ヲ誦ス。少焉アツテ汗両腋ノ下ヨリ出デテ横腹ノ邊ニ沾滴ス。心配胸ニ横ワリ困苦肝ニ銘ス — 成島柳北:『辟易賦』の一部、『朝野新聞』1875年8月17日
(あなた)はまだ読売新聞(よみうりしんぶん)を御存知(ごぞんじ)ないと見(み)えるそれこそ太政大臣(だじゃうだいじん)より下(しも)は挽車(くるまひき)に至(いた)るまで苦(く)なしに読(よめ)て上下(うえした)へよく分(わか)る実(じつ)に善(よ)い益(ため)になる物(もの) — 『読売新聞』1874年12月14日
  • 大は政治・政論・国際関係の記事が主で、小は巷の出来事・演芸・読み物の記事が主。
  • 小は挿絵入り。
  • 値段は小が大の半分以下。

安くて肩の凝らない方が好まれ、1876年(明治9年)の時点で、小新聞の読売は、大新聞の東京日日の1.5倍を売り、両者の差は年と共に広がった[1]

1881年(明治14年)、大新聞が求めた国会開設が、10年先の1890年(明治23年)と決まった(国会開設の詔も参照)。そして、板垣退助らの自由党大隈重信らの立憲改進党福地源一郎らの立憲帝政党が結成されると、自由は自由党系、郵便報知・東京横浜毎日(横浜毎日の後身)・朝野は改進党系、東京日日は帝政党系など、政党機関紙的な派閥ができ、読者そっちのけで、大新聞同士が議論し、中傷し、いがみ合い、世を白けさせ、部数を減らした。

小新聞の側では、読売と朝日が既に1879年(明治12年)からルビ付きの論説欄を設け、それが他紙にも広まった。

1886年(明治19年)、郵便報知は、娯楽・三面記事を載せルビを添える紙面の大衆化に踏み切った。格調に拘り続ける大新聞は衰退した。大新聞と小新聞は互いに近付き、呼び分けも消えた。

出典

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脚注

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  1. ^ 土屋礼子:『大衆紙の源流』、p.273

関連項目

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外部リンク

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