小川祐滋

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小川 祐滋
時代 安土桃山時代
生誕 天文23年(1554年
死没 慶長10年(1605年
別名 忠有、良氏、通称:左馬助(左馬介)
茶名:兼々庵
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 近江小川氏
父母 父:小川祐忠
兄弟 光氏[1](壱岐守)、祐滋(良氏)[1]、実乗[2]
なし
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小川 祐滋(おがわ すけしげ)は、安土桃山時代武将大名伊予今治国分城主。通称は左馬助。別名で忠有あるいは良氏ともいう。茶人としては兼々庵を名乗った。

略歴[編集]

小川祐忠の子。次男とも長男ともいう。譜代の家臣衆として豊臣秀吉馬廻となった。

慶長の役では、慶長3年(1598年)正月に蔚山への出動を命じられた。秀吉の死に際しては遺物として左文字の刀を受領した。また、同年に隠居した祐忠より家督を譲られている[3]

父同様に茶道に通じ、千道安古田織部に師事していた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには、父と共に出陣。石田三成と親しく西軍に属したが、父・祐忠は藤堂高虎の誘いを受けて内応を約束していた。本戦では西軍として戦おうとしたものの父や老臣達の説得により、小早川秀秋の寝返りに続いて東軍に寝返った。ところが戦功を挙げたにもかかわらず改易が言い渡された。これは西軍に積極的に関与していたことや、最後まで東軍への転身を拒否していた為だとされる。戦後、死罪一等も検討されたが親族の一柳直盛の助命嘆願により半知(減封)処分に減刑され、1年後の慶長6年9月7日付で豊後国日田郡・玖珠郡・速水郡内に2万石の所領を認める「豊後国内御知行方目録」を与えられている。しかし、日田への入領をめぐって弟・光氏との間で兄弟間の出入があり、実際には光氏が家督を継ぐこととなった。

慶長10年(1605年)に山城国にて病死した[3]

なお、祐滋を萬屋平右衛門[4]と同一視する説があるが、小川祐忠の子とされる以外に共通点はない。

脚注[編集]

  1. ^ a b 長男または次男という。彦根藩の筋奉行に小川半左衛門が提出した由緒書では、光氏が長男、良氏(祐滋)が次男、実乗が三男となっている。『國領系図』では、左馬介良氏が嫡子で壱岐守光氏を弟としている。しかし異母兄弟であるということならば、嫡出を先に書いたということかもしれない。
  2. ^ 二男または三男。出家して、石清水八幡宮社の瀧本坊の住持となった。
  3. ^ a b 大橋金造 1928, p.457
  4. ^ 小川土佐守祐忠の長男は千橘といって、関ヶ原で改易となった後に、萬屋の屋号を用い、「萬屋平右衛門」と名乗って、京都二条で米穀商や両替商、木楽屋などを営んで成功を収め、寛文年間に二条陣屋を預けられるほどの豪商となったという伝承がある。ただし、祐忠に「千橘」という名の子はおらず、光氏と良氏(祐滋)は共に慶長年間に病死したとされており、史料とも整合性がないので、商家の家伝として創られたものであろう。

参考文献[編集]