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大道寺忠七

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大道寺忠七

大道寺 忠七(だいどうじ ちゅうしち、1865年8月19日慶応元年6月28日[1]) - 1905年明治38年)3月2日[2])は、日本の政治家衆議院議員(2期)。

経歴

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愛知県出身[2]。和合義塾と成美黌で学ぶ。陸軍に入り、歩兵中尉に進む[2]知多郡内海町(現・南知多町)会議員、同町長、愛知県会議員となる[2]

1902年第7回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から壬寅会公認で立候補して初当選する[3]1903年第8回衆議院議員総選挙では中正倶楽部から立候補して再選[4]。衆議院議員を2期務め、1904年第9回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して落選した[5]

日露戦争で召集され、1905年、奉天会戦で戦死した。

脚注

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  1. ^ 衆議院 編『『第十八回帝国議会衆議院議員名簿』』衆議院公報附録、1903年、12頁。NDLJP:900093 
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』369頁。
  3. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』37頁。
  4. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』41頁。
  5. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』45頁。

参考文献

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  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。