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劉開 (漢)

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劉開(りゅう かい、生年不詳 - 131年)は、後漢皇族。河間孝王。

経歴

章帝と申貴人のあいだの子として生まれた。90年永元2年)5月丙辰、河間王に封じられ、楽成郡勃海郡涿郡を分割して河間国とした。兄の和帝は章帝のやりかたを踏襲して、兄弟たちをみな京師洛陽にとどめ、官僚たちが諸王の赴任を求めても許そうとしなかった。103年(永元15年)、劉開は和帝の南巡に従った[1]106年延平元年)3月丙戌、劉開は河間国に赴任した[2]。劉開は法度を遵守して、官吏や民衆に敬愛された。131年永建6年)2月庚午、死去した[3]

146年本初元年)、孫の劉志(桓帝)が即位すると、劉開は孝穆皇と追尊され、夫人の趙氏は孝穆皇后と追尊された[4]。廟は清廟といい、陵は楽成陵といった。

子女

  • 河間恵王劉政
  • 蠡吾侯劉翼 - 桓帝の父。
  • 安平孝王劉徳
  • 解瀆亭侯劉淑(孝元皇) - 霊帝の祖父。

脚注

  1. ^ 後漢書』和帝紀
  2. ^ 『後漢書』殤帝紀
  3. ^ 『後漢書』順帝紀
  4. ^ 『後漢書』桓帝紀

伝記資料

  • 『後漢書』巻55 列伝第45