前田長禮
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前田 長禮(まえだ ながひろ、文政13年7月28日(1830年9月14日) - 明治36年(1903年)4月2日)は、江戸幕府の高家旗本で表高家。高家前田家の8代当主。高家役前田長徳の婿養子。実父は旗本御小性組小笠原頼母となっているが、内実は唐津藩主・小笠原長泰の三男である。母は家女。幼名は鑑之助、通称は愿十郎。明治5年(1872年)、通称の愿十郎を廃し、諱の長禮を実名とした。
文政13年(1830年)7月28日、唐津城内で生まれる。嘉永5年(1852年)11月25日、前田主馬長徳に実子がないため、婿養子となる。嘉永6年(1853年)2月15日、13代将軍徳川家慶に御目見し、表高家柳之間詰となる。慶応元年(1865年)12月24日、養父の家督を相続する。慶応3年(1867年)10月、15代将軍徳川慶喜が大政奉還し将軍職を返上すると、高家26家は願い出の通り朝臣に召し加えられ、中大夫席となる。明治2年(1869年)12月3日、従前の領地召上げ(諸侯、中大夫、下大夫、上士に至るまで)となり、旧幕時代の領分1400石を返納し新たに現米高75石を下賜され、東京府貫属士族となる。明治15年(1882年)10月25日、隠居の届け出をし、嗣子・長善が家督相続となる。
明治36年(1903年)4月2日、病死、74歳。市ヶ谷・自證院に葬られた。法号は常樂院馨山長禮大居士。
妻は長徳の養女・光(こう)(実父は加藤明邦)。子は、長男・長善(ながよし)、二男・堀尾長興(ながおき)、長女・稽(けい)、次女・鐵(てつ)の2男2女。二男が堀尾姓を名乗って分家した経緯については、前田家祖・前田玄長の項を参照。
参考文献
[編集]- 「前田家先祖書」
- 「前田家系譜」