内田保秀
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内田 保秀 うちだ やすひで | |
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生年月日 | 1898年1月14日 |
出生地 | 鳥取県米子市 |
没年月日 | 1957年6月23日(59歳没) |
前職 | 米吾代表取締役 |
在任期間 | 1953年 - 1955年 |
内田 保秀(うちだ やすひで、明治31年(1898年)1月14日 - 昭和32年(1957年)6月23日)は日本の実業家、政治家。元米吾代表取締役。内田家の12代目[1]。元米子市議会副議長。
経歴
[編集]大正15年(1926年)社長職に就いた保秀にとって、先代・秀蔵とともに建設を始めた「米子米吾ビル」の竣工が初仕事となった[1]。
昭和22年(1947年)、米子市議会議員に立候補し初当選を果たした[1]。昭和24年(1949年)には、「米吾」を有限会社とした[1]。昭和28年~30年(1953~1955年)には市議会副議長をつとめた[1]。
家系
[編集]内田家は代々米問屋を家業としていた[2]。明治7年(1874年)廃業[2]、旅館経営へ転業[2]。明治35年(1902年)国鉄山陰線敷設以来[2]、米子駅構内営業を始める[2]。
参考文献
[編集]- 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 ウ…83頁
史料
[編集]大正5年(1916年)刊の『陰陽八郡一覧』によって、国税二十円以上の納税者をみると、 米子駅前通りと考えられる成実村では、
- 内田秀蔵[3](「米吾」、物品販売、二十八円二十銭)
- 石田運送合名(運送・請負、五十一円三十銭)
- 柏木正一(旅館、二十三円八十銭)
- 名島合名(物品販売、五十九円三十銭)
- 赤沢康平[4](請負、五百十四円六十銭)となっている。[5]