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保田耕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)は、日本の眼科医外島保養院邑久光明園というハンセン病療養所に勤務し、初代奄美和光園園長が発令されたが、応召し、中国で戦病死した。

略歴

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1907年、和歌山県で出生。 1932年。大阪大学卒業。外島保養院医員。1934年。外島保養院水害後は邑久光明園に勤務。1938年。邑久光明園医務課長。1943年4月。奄美和光園園長発令。5月27日園長保田耕ほか職員7名と家族21名が奄美大島に到着。戦争が激しく奄美島民の出迎えはなかった。1943年8月31日。応召。1943年9月7日。中国で戦死。同日 松本当太郎が奄美和光園園長心得に発令。[1]別の文献によると、43年9月に赤紙がきた。大阪の連隊に編入され、1945年5月27日中国湖北省武昌方面の軍病院に勤務中、腸チフスマラリアに感染。戦病死とあるが、この日が上記奄美大島到着の日であるので取り違えたと思われる。[2]

業績

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  • らい患者眼疾患の統計,らい患者の視力、トラホームの影響。1933年らい学会。
  • アウロチオ・ナトリウムのらい眼疾患に及ぼす影響。1934年らい学会。
  • らい性急性毛様体炎における前房穿刺について。1935年らい学会。
  • らいの眼房水の研究、らい菌検出。1936年らい学会。
  • らい患者角膜潰瘍の処置。らい患者の屈折異常。1937年らい学会。
  • らいにおける眼圧。1939年らい学会。
  • らい患者に合併せる全色眼盲。1941年らい学会。

奄美和光園での苦労

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  • 一行は船着き場近くの旅館で休憩後、人里離れた宿舎に落ち着いた。職員宿舎は極めてお粗末で、雨漏りするが修理する材料もない。飲料水は谷川に掘割を作り竹の樋を通したが、浄水装置がなく、幼児2名が相次いで急性腸炎で死亡した。

応召について

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  • 厚生省では、奄美大島の奄美和光園の初代園長になり手がなく、陸軍省に応召を免除してもらう条件をつけたが、陸軍省は厚生省との約束を忘れたという。[3]

脚注

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  1. ^ 『光仰ぐ日あるべし』 p67
  2. ^ 保田耕 in 旧外島保養院誌 26-27 p.29, 初出 楓
  3. ^ 旧外島保養院誌 26-27, 桜井方策 楓 昭和7,8年代の医局展望

文献

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  • 『光仰ぐ日あるべし 南島のハンセン病療養所の50年。国立療養所奄美和光園』 柏書房。1993. ISBN 4-7601-0991-9 C0021 P3600E
  • 旧外島保養院誌 26-27, 桜井方策 「楓」 昭和7,8年代の医局展望