大口屋暁雨
大口屋暁雨(おおぐちや ぎょうう)は十八大通の筆頭といわれた江戸時代の通人。本名は大口屋治兵衛(じへえ)。暁雨は号で、後に暁翁と号す。生没年不詳[注釈 1][注釈 2][1]。
家業は旧浅草区蔵前の札差で、札差株仲間が享保9年(1724年)に結成された当時から営業している起立人の1人である。天王町組に属して43年間営業し、のち廃業している[2][3]。
大通としての逸話
[編集]自ら通人の筆頭をもって任じる暁雨は、「真白な大黒の紋を付けた黒羽二重の小袖に紅裏、目にも鮮やかな緋博多帯に、浅葱無垢の下着を一つ前に重ねて着て、桐の下駄、紫縮緬の鉢巻、腰に一つ印籠と鮫鞘」という、芝居の『助六』そっくりの風態をして吉原で遊んだ[注釈 3][注釈 4][4][5][6][7]。
黒小袖小口の紋付を着流し、鮫鞘の脇差に印籠1つ、銀こはぜの足袋に下駄を履いて吉原大門を入ると、仲之町両側の茶屋の女房が出てきて、暁翁の着る小袖の大黒の紋を見れば、「そりやこそ福神様の御出」と、わやわや騒いだ故、いつしかこの姿を「今助六」というようになったという[注釈 3][注釈 2][8][6][9]。
暁雨が吉原通いの際に着た大黒紋を色さしにした紋付は、二代目市川團十郎が助六をつとめたとき、杏葉牡丹を色さしにしたのを真似たものだった[6]。
70歳を越えた二代目團十郎が中村座で3度目の助六(『男文字曽我物語』)を一世一代としてつとめたとき、下桟敷の西半分は大口屋暁翁が、東半分は小田原町の魚問屋で同じく十八大通の1人・鯉屋恋藤(鯉屋藤左衛門)が買い取った[注釈 3][6]。
怪力で有名で、着ていた小袖に米糠がかかったことに怒って米を搗いていた男の首筋を掴んで臼に押し込み杵で打ち殺そうとした[注釈 5]、蔵前町内で喧嘩をして暴れていた鳶職の男の手先を取ってねじ伏せた[注釈 6][注釈 1]、久米八という乱暴者をさんざんにぶちのめして吉原から追い払った[注釈 2]など、数々の逸話が残っている[10]。
濡衣
[編集]彼が吉原通いの際にいつも差料としていた脇差は、相当な業物であったという。ある初夏の雨の晩、吉原へ続く土手を歩いていると、ずぶ濡れの乞食坊主に出会った。暁雨が戯れに「世の中は辛いだろう。何か望みがあれば言ってみろ」と聞いたところ、坊主は「饅頭を腹一杯食べて死にたい」と答えたので、暁雨は吉原の出入の饅頭店の饅頭を蒸籠ごと買い、それを若い者に運ばせて坊主の所に戻り、「好きなだけ食べろ」と促すと坊主はたちまちの内に饅頭全部を平らげてしまった。暁雨が「ほかに望みはあるか」と聞くと坊主は「この世にいてもたいして役には立たぬ命、饅頭を腹一杯食えた今、ここで死んでも悔いはありません」と答えた。暁雨が「では、死にたければその命俺が貰おうか」と言うと坊主は「はい」と答え、目を閉じて手を合せ首を差し出したまま身動き一つしなかった。坊主の覚悟に感じ入った暁雨は一刀のもとに「水もたまらず衣の上より袈裟がけに」斬り捨ててしまった[注釈 7]。
晩年
[編集]一代の豪遊を誇った大口屋暁雨も、明和4年11月(1767年12月)、伊勢屋太兵衛に札差の株を譲り廃業した[14][7]。晩年は落魄し、厩河岸で間口二間の侘しい住いのうちに死亡したと伝えられる。
台東区の了源寺に大口屋暁雨の墓といわれる碑が残っている。ただし、墓碑に刻まれた死亡年月日は「享保十五年庚戌十二月八日」(1731年1月15日)となっており、この墓が実際に大口屋暁雨のものであるかどうかは疑問視されている。
『侠客春雨傘』
[編集]大口屋暁雨を芝居の主人公にした歌舞伎の演目に、福地桜痴作の『侠客春雨傘』(おとこだて はるさめがさ)がある。明治30年 (1897年) 4月歌舞伎座において、九代目市川團十郎の大口屋暁雨で初演された。初め小説『侠客春雨傘』(きょうかく はるさめがさ)として春陽堂書店から発行したが、好評を博したので自ら脚色して歌舞伎化した。演劇改良運動の先鋒を自負する福地は、この作品を町人の武士に対する反抗と封建社会の階級制度に対する批判として書いたといわれるが、その実は江戸歌舞伎の伝説的存在だった大口屋暁雨を九代目たっての願いで英雄譚に仕立て上げたものだった。初演では九代目の暁雨と七代目市川八百蔵の釣鐘庄兵衛が絶讃を博し、興行は日延に日延を重ね、空前の大入となった。またこのとき暁雨(團十郎)の差した渋蛇の目が評判となり巷に大流行した。
この九代目の暁雨はその高弟七代目松本幸四郎に継承され、今日『侠客春雨傘』は高麗屋の襲名披露興行では必ず上演されるお家芸の一つとなっている。
史料
[編集]- 大槻如電著 吉田豊編注『江戸服飾史談』ちくま学芸文庫、2024年5月、ISBN 978-4-480-51242-0
- 岩本活東子編 『燕石十種』 第3巻 中央公論社、1979年9月、ISBN 4-12-400803-1
- 岩本活東子編 『燕石十種』 第4巻 中央公論社、1979年11月、ISBN 4-12-400804-X
- 国書刊行会編 『続燕石十種』 第2巻 中央公論社、1980年7月、ISBN 4-12-400808-2
- 松浦静山著 中村幸彦/中野三敏校訂 『甲子夜話』 1 平凡社、2006年11月、ISBN 4-256-80306-8
参考文献
[編集]- 赤坂治績『江戸っ子と助六』 新潮新書、2006年8月、ISBN 4-10-610178-5
- 小沢詠美子『お江戸の経済事情』 東京堂出版、2002年5月、ISBN 4-490-20467-1
- 氏家幹人『サムライとヤクザ―「男」の来た道―』 ちくま新書、2007年9月、ISBN 978-4-480-06381-6
- 岡本綺堂『綺堂江戸の話大全』 河出書房新社、2023年11月、ISBN 978-4-309-03150-7
- 北島正元『日本の歴史 18 幕藩制の苦悶』 中公文庫、2006年1月、ISBN 4-12-204638-6
- 北原進『江戸の高利貸 旗本・御家人と札差』 吉川弘文館、2008年3月、ISBN 978-4-642-06345-6
- 櫻庭由紀子『浮世絵と芸能で読む江戸の経済』 笠間書院、2023年11月、ISBN 978-4-305-70995-0
- 末岡照啓『徳川幕臣団と江戸の金融史 札差・両替商の研究』 思文閣出版、2024年12月、ISBN 978-4-7842-2100-4
- 高尾善希『忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち』 角川書店、2017年1月、ISBN 978-4-04-400208-4
- 高柳金芳『御家人の私生活』 雄山閣出版、2003年12月、ISBN 978-4-639-01806-3
- 奈良本辰也『日本の歴史 17 町人の実力』 中公文庫、2005年12月、ISBN 4-12-204628-9
- 松本清張『幕末の動乱』 河出書房新社、2007年11月、ISBN 978-4-309-22472-5
- 『国史大辞典』2巻、吉川弘文館、1980年7月、ISBN 4-642-00502-1
脚注
[編集]注釈
[編集]- 1 2 松浦静山『甲子夜話』 1 平凡社、144-145頁。
- 1 2 3 馬文耕『当世武野俗談』(岩本活東子編『燕石十種』 第4巻 国書刊行会編 中央公論社、106-108頁)。
- 1 2 3 「御蔵前助六之事」『十八大通 一名、御蔵前馬鹿物語』(『続燕石十種』 第2巻 国書刊行会編 中央公論社、394頁)。
- ↑ 「三升屋二三治戯場書留」(岩本活東子編『燕石十種』 第3巻 中央公論社、8-9頁)。
- ↑ 「米搗、暁翁へ慮外せし事」『十八大通 一名、御蔵前馬鹿物語』(『続燕石十種』 第2巻 国書刊行会編 中央公論社、395-396頁)。
- ↑ 喧嘩の原因が金を貸した貸さぬということだと聞いて、男の手に金を握らせてからねじ上げたのだという。
- ↑ 「濡衣の脇差」『十八大通 一名、御蔵前馬鹿物語』(『続燕石十種』 第2巻 国書刊行会編 中央公論社、394-395頁)。
- ↑ 「濡衣の脇差」『十八大通 一名、御蔵前馬鹿物語』(『続燕石十種』 第2巻 国書刊行会編 中央公論社、395頁)。
- ↑ 「濡衣の脇差 附言」『十八大通 一名、御蔵前馬鹿物語』(『続燕石十種』 第2巻 国書刊行会編 中央公論社、395頁)。
出典
[編集]- ↑ 奈良本辰也『日本の歴史』 17 中公文庫、428頁。
- ↑ 北原進『江戸の高利貸』吉川弘文館、47頁。
- ↑ 『江戸の高利貸 旗本・御家人と札差』の巻末「江戸札差一覧」によると、片町 六番組となっている。
- ↑ 赤坂治績『江戸っ子と助六』新潮社新書、93頁、151-152頁、192頁。
- ↑ 奈良本辰也『日本の歴史』 17 中公文庫、431頁。
- 1 2 3 4 北原進『江戸の高利貸』吉川弘文館、91頁。
- 1 2 末岡照啓『徳川幕臣団と江戸の金融史』思文閣出版、60-61頁。
- ↑ 北島正元『日本の歴史 18』中公文庫、297-298頁。
- ↑ 松本清張『幕末の動乱』河出書房新社、109-110頁。
- ↑ 北原進『江戸の高利貸』吉川弘文館、92-93頁。
- ↑ 赤坂治績『江戸っ子と助六』新潮社新書、151-152頁。
- ↑ 北原進『江戸の高利貸』吉川弘文館、94-95頁。
- ↑ 北原進『江戸の高利貸』吉川弘文館、97頁。
- ↑ 北原進『江戸の高利貸』吉川弘文館、47頁、82頁、168-169頁。