何思澄

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何 思澄(か しちょう、生没年不詳)は、南朝斉からにかけての官僚文人は元静。本貫東海郡郯県

経歴[編集]

南朝斉の征東録事参軍・余杭県令の何敬叔の子として生まれた。若くして学問につとめ、文辞に巧みであった。南康王蕭宝融の下で侍郎を初任とした。安成王蕭秀の下で左常侍をつとめ、太学博士を兼ねた。天監6年(507年)、蕭秀が江州刺史に転じると、思澄はその下で平南行参軍となり、記室を兼ねた。この頃、思澄は「遊廬山詩」を作って、沈約に激賞された。沈約は郊外の居宅に新しい書楼を設けたとき、書人に命じてこの詩を壁に書きつけさせた。また思澄は傅昭に請われて「釈奠詩」を作った。

天監15年(516年)、太子詹事の徐勉が学士を推挙して華林に入れ『遍略』を編纂するよう武帝に命じられると、思澄ら5人を選んで推挙した。8年でその書は完成し、合わせて700巻に及んだ。思澄は廷尉正から治書侍御史に転じた。しばらくを経て秣陵県令に転じ、入朝して東宮通事舎人を兼ねた。思澄は舎人を兼ねたまま、湘東王蕭繹の下で安西録事参軍をつとめた。ときに徐勉や周捨はともに思澄の学問を好んで、よく思澄を招いて語らった。後に武陵王蕭紀の下で宣恵中録事参軍に任じられ、在官のまま死去した。享年は54。文集が15巻あった。

子の何朗は字を世明といい、若くして文才で知られ、「敗冢賦」を作った。官は員外散騎侍郎・固山県令となったが、24歳で死去した。

伝記資料[編集]