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伊庭秀賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊庭 秀賢(いば ひでかた、寛政12年(1800年) - 明治5年6月28日1872年8月2日)は、江戸時代後期から幕末期にかけての武士、国学者。初名は秀形。通称は久右衛門。詞林園または水斎と号す[1]京都町奉行を務めた関出雲守行篤の弟にあたる。

略歴

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江戸幕府幕臣の築山氏(一説に関氏)の三男として江戸に生まれる。伊庭家を継ぎ、徒士となる。40歳すぎに職を辞して村山素行に学ぶ。国学の弟子に鈴木重嶺小俣景徳三輪義方らがいる。享年73で没す。江古田の蓮華寺に葬られる。夏雲院奇誉峰容居士。

逸話

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  • 隣家の人が「親の年が42歳の時に子が2歳になると、親子のいずれかに祟りがある」という言い伝えに悩み、秀賢の家に仮に子を捨てるのでそれを拾ってくれと頼まれた。乞いのままに捨てられた子を親に渡した時に和歌を詠んでいわく「おひたたば親のめぐみをおもへかし 捨つるはすてぬ心なりせば」[2]
  • 旧幕臣の文人・中根香亭の父は秀賢の同輩で、香亭は秀賢を「平生議論が甚だ多く、且つ酒量ありし人」として記憶している。また香亭の父は「安右衛門(関行篤)は才気こそ水斎(秀賢)に及ばないがあれだけ立身した。水斎は安右衛門よりも才気優れて学問もあったのに一生沈淪した。人の才不才と運不運はおのずから別のことだ。」といつも言っていたという[3]

著作

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  • 『霊語天格』四巻
  • 『霊語指掌』
  • 『武家位署式考』

参考文献

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  • 中根粛治・編『慶長以来諸家著述目録 和学家之部』(1893年、青山堂支店)[4]
  • 日本文学史料研究会編『国学者伝記集成 第2巻 続編』

脚注

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  1. ^ 関隆治・編『國学者著述綜覧』森北書店、1943年、19頁。 
  2. ^ 新保磐次 編『香亭遺文』金港堂書籍株式会社、1916年、132頁。 
  3. ^ 新保磐次・編『香亭遺文』金港堂書籍株式会社、1916年、133頁。 
  4. ^ 関隆治・編『國学者著述綜覧』森北書店、1943年、63頁。