人見淇堂

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人見 淇堂(ひとみ きどう、文化13年〈1816年[1]明治27年〈1894年3月17日)とは、江戸時代後期から明治時代にかけての幕臣画家

来歴[編集]

大岡雲峰及び椿椿山の門人。また一時期、葛飾北斎の門下だったという。名は政義(まさよし)、通称は甚四郎。幕臣の人見甚四郎(先代)の息子。『文武高名録』によれば幼少より絵を好み、11歳で大岡雲峰に入門し絵を学んだが、のちに椿椿山の門に入る。文政12年(1829年)10月、父の家督を継ぎ小普請、翌年5月には書院番となる。以後、近習番や広敷用人などを歴任する。明治になってからは画業に専念し、浅草区森下町、後に青山南町に住んだ[2]。享年79。墓所は青山墓地[3]

作品[編集]

  • 椿山画譜』 ※明治13年(1880年)刊行。奥付に「編輯人 人見甚四郎 浅草区森下町六番地」とあり
  • 名家書画春秋帖』(『諸家書画帖』) 木版本 大英博物館所蔵 ※明治13 - 14年。柴田是真らと共画、淇堂は鳥の図を描く[4]
  • 「端午飾」 絹本着色 京都学・歴彩館所蔵[1]

脚注[編集]

  1. ^ 『江戸幕臣人名事典(改訂新版)』、「人見甚四郎」の項(865頁)に拠る。『口嗜小史』(明治20年〈1887年〉刊行)には「今年七十三」とあり。
  2. ^ 明治22年の『書画集覧次第不同』に「青山ミナミ丁 人見淇堂」とあり。
  3. ^ 『東京美術家墓所誌』(結城素明著、1936年)、「人見淇堂墓」の項に拠る。『日本人物情報大系70 書画編10』(皓星社、2001年)133頁参照。
  4. ^ 『暁斎』第95号(河鍋暁斎記念美術館、2007年)29頁。

参考文献[編集]

  • 新井朝定編 『文武高名録』(巻之一) 1894年 ※「人見淇堂君肖像小伝及雛鵞ノ図」
  • 西田春耕 『口嗜小史』 1919年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[2]
  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※113頁
  • 熊井保編 『江戸幕臣人名事典(改訂新版)』 新人物往来社、1997年 ※「人見甚四郎」の項(865頁)
  • 『日本人物情報大系70 書画編10』 皓星社、2001年 ※『東京美術家墓所誌』所収