乙速孤仏保

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乙速孤仏保(いつそくこ ぶつほ、生年不詳 - 535年)は、北魏末から西魏にかけての北秀容郡の北方民族の首長[1]

経歴[編集]

若くして武勇に優れ、弓射を得意とした。北魏の孝武帝のとき、直閤将軍となった。永熙3年(534年)、孝武帝の入関に従い、蒲子県公に封じられ、弓矢を賜った。西魏の大統元年(535年)、北梁州刺史蘭欽漢中に侵攻してきた。仏保は都督として兵を率いて奮戦したが、敗北必至と知って天を仰いで大哭し、「この馬はわたしが常に乗ってきたもので、この弓矢は天子がわたしに賜ったものである。どうして賊にわが弓馬を渡せようか」といった。城が陥落する前に、愛馬と弓を斬り、自刎して死んだ。黄門郎の趙僧慶が仏保の遺体を収容して長安に運んだ[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b 北史 1974, p. 2850.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4