ヴァルブルギス・フォン・リートベルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァルブルギス(右)と姉のアルムガルト、ヘルマン・トム・リンク(Hermann tom Ring)による家族肖像画の一部

ヴァルブルギス・フォン・リートベルク(Walburgis von Rietberg, 1555/6年 リートベルク - 1586年5月26日 エーゼンスドイツ語版)は、ドイツヴェストファーレン地方の小領邦の女子相続人。リートベルク女伯ドイツ語版(1584年 - 1586年)。

リートベルク伯ヨハン2世ドイツ語版とその妻アグネス・フォン・ベントハイム・ウント・シュタインフルトドイツ語版の間の次女として生まれた。1577年5月1日にオストフリースラント伯エンノ3世ドイツ語版と婚約した。ヴァルブルギスが21歳頃だったのに対し、エンノ3世は7歳年下の14歳だった。結婚は1581年1月28日、エンノ3世が17歳の誕生日を迎えた後に行われた。1584年、姉のリッペ伯夫人アルムガルトの死により、リートベルク伯爵領を相続した。

第3子の長男(生後すぐに亡くなった)を出産後に肥立ちの悪かったヴァルブルギスは、1586年5月7日に廷臣たちを連れてヴィットムントドイツ語版に療養に出かけた。同月末にエーゼンスに戻ってまもなく、死去した。遺骸は同市内のマグヌス教会(Magnuskirche)に葬られた。彼女の死とともに、ヴェルル=アルンスベルク家(Hause Werl-Arnsberg)のリートベルク伯爵系統は断絶した。

ヴァルブルギスの死因については、食事に供されたビールスープ(Biersuppe)に毒を盛られたためだとする噂が立った。この噂を元に、女伯毒殺の嫌疑を受けた3人の女性が拷問にかけられ、うち1人が苦し紛れに犯行を「自白」した。医師が女伯の死因は自然死だったと証明したにもかかわらず、3人の女性は町の市場で公開火刑に処せられた。

子女[編集]

夫エンノ3世との間に3人の子女をもうけた。

参考文献[編集]

  • Onno Klopp: Geschichte Ostfrieslands von 1570-1751. Rümpler, 1856, S. 25f..
先代
アルムガルト
リートベルク伯
1584年 - 1586年
次代
ザビーナ・カタリーナ