レオニード・フルシチョフ

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レオニード・フルシチョフ
Леонид Хрущёв
生誕 レオニード・ニキトヴィチ・フルシチョフ
(1917-11-10) 1917年11月10日
ウクライナ人民共和国の旗 ウクライナ人民共和国 エカテリノスラフ県ユゾフカ
死没 1943年3月11日(1943-03-11)(25歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 カルーガ州ジズドラ付近
国籍 ウクライナ
市民権 ソビエト連邦
出身校 ジューコフスキー空軍工学学校英語版
職業 戦闘機操縦士英語版
政党 ソビエト連邦共産党
配偶者 ロザリア・トレイヴァス
非婚配偶者 リュボフ・シジフ
ニキータ・フルシチョフ
エフロシーニャ・ピサレワ
家族 ニーナ・フルシチョワ(孫)
受賞
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レオニード・ニキトヴィチ・フルシチョフロシア語: Леони́д Ники́тович Хрущёв1917年11月10日 - 1943年3月11日)は、第二次世界大戦期におけるソビエト連邦空軍の戦闘機パイロットであり、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフの長男である。1943年に操縦機が撃墜されて死亡したが、死亡時の正確な状況は不明のままである。

若年期[編集]

フルシチョフは1917年11月10日に、ニキータ・フルシチョフとその最初の妻、エフロシーニャ・ピサレワとの間に生まれた[1]。高校卒業後は工場で働いた。高校在学中、コムソモールソビエト連邦共産党の青年部)から2度の懲戒を受けた。1度目は泥酔と規律欠如、2度目は会費未納のためである。

空軍でのキャリア[編集]

1935年、フルシチョフはソビエト連邦空軍に戦闘機パイロットとして入隊した。

第二次世界大戦中、フルシチョフは第46航空師団第134爆撃機航空連隊に所属し、カリーニン州アンドレアポリに駐留した。フィンランドとの冬戦争で30回以上出撃し、フィンランドの防衛線であるマンネルハイム線を爆撃した。冬戦争は1940年3月13日にソ連側の勝利で終結したが、フルシチョフは戦場に出ることを志願した。1941年夏に12回の戦闘任務を遂行し、赤旗勲章を授与された。

1941年7月26日、モスクワ近郊でフルシチョフの乗機がドイツ軍の戦闘機に衝突され、不時着した。フルシチョフは足を骨折し、軍靴から骨が突き出ている状態でクイビシェフの病院に入院した。医師はフルシチョフの脚を切断しようとしたが、フルシチョフがピストルで脅して撤回させた。回復後、負傷した脚はもう一方の脚よりも短くなっていた。クイビシェフで療養中、フルシチョフはスペイン出身の軍人ルベン・ルイス・イバルリ英語版と知り合いになった。

1942年の秋、パーティー中に酔った状態でピストルを使ってウィリアム・テルごっこをし、誤って水兵を射殺した。軍法会議にかけられ、懲罰として再び前線に送られた[2]

死亡[編集]

1943年3月11日、フルシチョフは戦闘機Yak-7を操縦していた[3]。フルシチョフの同僚は、フルシチョフの乗機がフォッケウルフ Fw190の攻撃を受けて空中で爆発するのを目撃した[4]。これは、自分の機体で他のパイロットを庇おうとしたものとみられる[5]。しかし、墜落したと思われる地点が赤軍パルチザンの支配地域であることから、翌日の夜に何機もの飛行機で上空からフルシチョフの遺体や乗機の残骸を見つけようとしたが、発見できなかった[6][7]。遺体が見つからなかったことに加え、当時、フルシチョフの父は政治局員であり、ソ連で重要な政治家の一人となっていたことから、この死に関して様々な陰謀論が生まれた[8]

戦闘中行方不明となってから2か月後、祖国戦争勲章1等が授与された[9]

私生活[編集]

フルシチョフは生涯に2度結婚している。最初の妻はロザリア・ミハイロヴナ・トレイヴァス(Розалия Михайловна Трейвас)[10]だが、ロザリアの叔父で党幹部のボリス・トレイヴァスロシア語版が1937年に逮捕・銃殺された[11]ため、父ニキータの命により離婚させられた[12]

1939年より、リュボフ・イラリオノヴナ・シジフ(Любовь Илларионовна Сизых)と事実婚の状態になった[13]。レオニードの死後、リュボフはフランス外交官との交際を理由にスパイ容疑で逮捕され、5年間収容所に送られた[14]

リュボフとの間には1940年に娘のユリア・レオニドヴナ・フルシチョワ(Юлия Леонидовна Хрущёва)が生まれた。レオニードの死後、ユリアは祖父に当たるニキータの養子となった[14][15][16]。ユリアは2017年に鉄道事故で死亡した。ユリアの娘のニーナ・フルシチョワ(1963年生)は現在ニューヨークで大学教授をしている。

脚注[編集]

  1. ^ Taubman 2003, pp. 38–40.
  2. ^ Taubman 2003, pp. 156–157.
  3. ^ Last Combat of Soviet Leader Khrushchev's Son”. Pravda (2003年8月4日). 2013年5月16日閲覧。
  4. ^ ПОСЛЕДНИЙ БОЙ ХРУЩЕВА”. www.trud.ru (2003年6月18日). 2018年1月6日閲覧。
  5. ^ Страницы истории: Лётчик Леонид Хрущёв”. www.ispl.ru. 2018年1月6日閲覧。
  6. ^ Кем был Леонид Хрущев: героем или предателем?”. shkolazhizni.ru. 2018年1月6日閲覧。
  7. ^ Память народа :: Донесение о безвозвратных потерях :: Хрущев Леонид Никитович, 11.03.1943, пропал без вести”. pamyat-naroda.ru. 2018年1月6日閲覧。
  8. ^ С. Бондаренко Рада Хрущёва об отце и семейных тайнах Archived 2007-09-03 at the Wayback Machine. // Vedomosti. — № 15.11.2003. (in Russian)
  9. ^ Память народа :: Документ о награде :: Хрущев Леонид Никитович, Орден Отечественной войны I степени”. pamyat-naroda.ru. 2018年1月6日閲覧。
  10. ^ Ботинок Хрущёва - новости церковь Медиапроект s-t-o-l.com
  11. ^ Трейвас Борис Ефимович ::: Мартиролог: Жертвы политических репрессий, расстрелянные и захороненные в Москве и Московской области в период с 1918 по 1953 год
  12. ^ Торчинов В. А., Леонтюк А. М. Вокруг Сталина: Историко-биографический справочник. — СПб., 2000.
  13. ^ Память народа :: Донесение о безвозвратных потерях :: Хрущёв Леонид Никитович, 11.03.1943, пропал без вести,”. pamyat-naroda.ru. 2016年7月24日閲覧。
  14. ^ a b Невестка Хрущёва рассказала о семье генсека СССР 18.02.2013
  15. ^ Смерть на рельсах. Внучка Никиты Хрущева погибла под колесами электрички | Люди | Общество | Аргументы и Факты
  16. ^ В Москве под колесами электрички погибла внучка Никиты Хрущева — РИА Новости, 08.06.2017

参考文献[編集]

  • Taubman, William (2003), Khrushchev: The Man and His Era, W.W. Norton & Co., ISBN 978-0-393-32484-6 
  • The Lost Khrushchev: A Journey into the Gulag of the Russian Mind. By Nina Khrushcheva. Tate Publishing; 320 pages;