ルノー・ド・クルトネー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルノー・ド・クルトネー
Renaud de Courtenay
サットン領主
在位 1161年 - 1190年

死去 1190年
配偶者 エレーヌ(アヴォワーズ)・デュ・ドンジョン
  モード・デュ・サプ
子女 ルノー2世
エリザベート
家名 クルトネー家
父親 マイル・ド・クルトネー
母親 エルマンガルド・ド・ヌヴェール
テンプレートを表示

ルノー・ド・クルトネーフランス語:Renaud de Courtenay, ? - 1190年)あるいはレジナルド1世・ド・コートネイ英語:Reginald I de Courtenay)は、イングランドに居を構えたフランス出身の貴族で、1335年にデヴォン伯となったコートネイ家の始祖である。バークシャーのサットン領主となった。

出身[編集]

ルノーは、フランス王国のクルトネー(現在のフランス中北部ロワレ県)の領主(荘園領主)マイル(ミロ)・ド・クルトネーと妻のエルマンガルド・ド・ヌヴェールとの間に生まれた息子である。

ルノーは父の後を継いでクルトネー領主となった。ルノーはフランス王ルイ7世とともに第2回十字軍に参加した。しかしルイ7世と反目したため、ルイ7世はルノーのフランスにおける領地を没収し、ルノーの娘エリザベートを末弟のピエール(1183年没)と結婚させてその領地をピエールに与えた。ルノーは1161年にサットン領主となった[1]

結婚と子女[編集]

ルノーはフェリー・デュ・ドンジョンの娘エレーヌ(アヴォワーズ)と結婚した。この結婚で以下の子女が生まれた。

  • ルノー2世(1125年 - 1194年9月27日) - 1172年にイングランド王ヘンリー2世のアイルランド遠征に従いウェックスフォードに向かった。デヴォンのオークハンプトンの女子相続人で、父ルノーの2番目の妃モード・デュ・サプの異父姉アヴォワーズ・ド・キュルシー(1219年没)と結婚した[2]。この結婚によりオークハンプトン城を手に入れ、その後何世代にもわたり子孫が保持した。息子ロバート(1242年没)は、初代デヴォン伯ヒュー・ド・コートネイ(1340年没)の曽祖父にあたる。
  • エリザベート(1127年 - 1205年9月) - フランス王ルイ7世の末弟ピエール1世・ド・クルトネー(1183年没)と結婚[3]

2度目にオークハンプトン領主ロバート・フィッツエディス(1172年没、イングランド王ヘンリー1世の庶子)の娘モード・デュ・サプと結婚した。

脚注[編集]

  1. ^ Mosley 2003, p. 1122.
  2. ^ Sanders 1960, pp. 69–70.
  3. ^ Vincent 1999, pp. 201–202.

参考文献[編集]

  • Mosley, Charles (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knightage. volume 1. Wilmington, Delaware, U.S.A.: Burke's Peerage (Genealogical Books) Ltd. 
  • Sanders, I.J. (1960). English Baronies. Oxford. pp. 69-70 , Barony of Okehampton
  • Vincent, Nicholas (1999). “Isabella of Angouleme:John's Jezebel”. In Church, S. D.. King John: New Interpretations. The Boydell Press