リンチェン・ギェンツェン

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リンチェン・ギェンツェンチベット文字རིན་ཆེན་རྒྱལ་མཚནワイリー方式Rin chen rgyal mtshan1238年 - 1279年)は、チベット仏教サキャ派仏教僧大元ウルスにおける2代目の帝師を務めた。先代帝師のパクパの異母弟にあたる。

漢文史料の『元史』では「リンチェン」がモンゴル語化したイリンチン(Erinčin > yìliánzhēn/亦憐真)という名前で記録されている[1]

概要[編集]

チベット語史料の『フゥラン・テプテル』によると、リンチェン・ギェンツェンはソナム・ギェンツェンとその妃のジョモロ(Jo mo 'bro)との間に戊戌1238年)に生まれた子供で、姉にはロプンマ・ドデ(sLob dpon ma mdo sde)がいたという[2]。初代帝師となったパクパと初代白蘭王となったチャクナはソナム・ギェンツェンの別の妃から生まれた子供であり、リンチェン・ギェンツェンは彼等の異母弟にあたる[3]

『元史』釈老伝によると、初代帝師のパクパが至元11年(1274年)にチベット帰国を申し出た際に弟のリンチェン・ギェンツェンが後任として選ばれ、第2代帝師になったとされる[4]。なお、パクパのチベット帰国は至元12年(1275年)にクンガ・サンポの乱を引き起こす事になる。リンチェン・ギェンツェンの没年について、漢文史料・チベット語史料双方ともに1279年(至元16年)卒とする記述と、至元19年(1282年)卒とする記述が混在している[5]。ただし、より信頼性が高いと見られる『元史』世祖本紀が至元16年(1279年)に「帝師亦憐真」が亡くなったと記すこと[6]、また『元史』釈老伝には「イリンチンが帝師となっておよそ6年(至元16年)に亡くなった」とあるが、「帝師となってからおよそ6年」は至元19年よりも至元16年の方が近いこと、などにより至元16年(1279年)卒説を採用するのが一般的である。リンチェン・ギェンツェンの死後は、ダルマパーラ・ラクシタが帝師の地位を継いだ。

なお、リンチェン・ギェンツェンは『元史』「釈老伝」では「帝師と為った」と明記されるものの、チベット語諸史料では「[パクパの帰国後]職務を代行した」としか記されず、歴代帝師の一人に数えられていない。あるいはチベット側の伝承ではリンチェン・ギェンツェンは正式な帝師として認められていないのではないかとも考えられている[7]

脚注[編集]

  1. ^ 野上/稲葉1958,435頁
  2. ^ 佐藤/稲葉1964,120頁
  3. ^ 稲葉1965,113-114頁
  4. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。……十一年、請告西還、留之不可、乃以其弟亦憐真嗣焉。……亦憐真嗣為帝師、凡六歳、卒。至元十九年、答児麻八剌剌吉塔嗣、二十三年卒」
  5. ^ 稲葉1965,114-115頁
  6. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年十二月]建聖寿万安寺于京城。帝師亦憐真卒。勅諸国教師禅師百有八人、即大都万安寺設斎円戒、賜衣」
  7. ^ 稲葉1965,115-116頁

参考文献[編集]

  • 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
  • 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26ISSN 0019-4344NAID 130004028242 
  • 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687 
先代
パクパ
大元ウルス帝師
1274年 - 1279年
次代
ダルマパーラ・ラクシタ