マリア・バグラティオニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
マリア・バグラティオニ
Maria Bagrationi
東ローマ皇后
Nicephorus III and Maria of Alania BnF Coislin79 fol2bis.jpg
ニケフォロス3世と皇后マリア
出生 1050年?
死去 1103年
配偶者 東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカス
  東ローマ皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテス
子女 コンスタンティノス・ドゥーカス
父親 グルジアバグラット4世
母親 ボレナ
テンプレートを表示

マリア・バグラティオニ(Maria Bagrationi, 1050年? - 1103年)は、東ローマ帝国皇帝ミカエル7世ドゥーカスの皇后。結婚後マリアと改名した。再婚して同じく皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスの皇后になった。アラニアのマリアとも呼ばれるため、実母ボレナと混同されやすい。美貌と知性の持ち主として知られ、グルジア正教会や聖地エルサレムへの寄進をおこなっていた。

生涯[編集]

グルジアバグラット4世(1027年 - 1072年)と2度目の王妃ボレナ(別名アラニアのマリア)の王女マルタ(Martha)として生まれる。母はアラン族の出身。

テオドラ女帝の庇護を頼り、教育を受けるべく、1056年にコンスタンティノープルへ向かうが、同年のうちに女帝が逝去したため、帰国した。

1065年、皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスの後継者ミカエルと結婚。1子コンスタンティノス・ドゥーカスをもうけた。

夫が将軍ニケフォロス・ボタネイアテスの反乱により修道院へ引退させられると、マリアは彼と結婚した。先代の皇后と結婚して皇位の安定を謀ることは、当時よく行われたことだった。ニケフォロスとの間には子供ができなかったため、皇帝はミカエル7世の長子コンスタンティノス・ドゥーカスを後継に指名した。

ニケフォロスは軍人出身で優しい夫ではなく、元々好きで結婚したわけでもなかったため、マリアはやがて皇位転覆を狙う、10歳近く年下の将軍アレクシオス・コムネノスに心を移すようになった。2人は相思相愛であるとの噂も流れた。

当時アレクシオスには9歳年下の、まだ12歳の妻エイレーネー・ドゥーカイナがいた。やがて反乱は成功し、ニケフォロスは修道院へ押し込められ、1081年にアレクシオスが即位した。しかし、彼はエイレーネーと離婚し、前皇后マリアと結婚するつもりであったため、皇后となったエイレーネーの戴冠を延期させた。しかしエイレーネーの生家である有力貴族ドゥーカス家と、ドゥーカス家の縁者で軍人貴族であるパライオロゴス家が、新皇帝の仕打ちに待ったをかけた。今回の反乱でコムネノス家に同調したのは、「皇后エイレーネーのためだ。」というのだった。また、ギリシャ正教では三度目の再婚は禁止されていた。足をすくわれかねない状況に、アレクシオスは考えを変え、マリアとの再婚を断念した。

前皇后として、自分の資産である小さな館に蟄居したマリアであったが、宮廷への出入りは以前と変わらなかった。アレクシオスは長女アンナ・コムネナ(歴史家)が生まれると、マリアの長男コンスタンティノス・ドゥーカスと婚約させた。そして、未来の嫁として、アンナ・コムネナはマリアの元で育てられることとなった。「ずいぶんと可愛がってもらったが、二度目の夫ニケフォロスがアレクシオス1世コムネノスに皇位を奪われた話を何度も聞かされた。」と、のちにアンナ・コムネナは回想している。

やがてアレクシオスに長子ヨハネスが生まれ、コンスタンティノス・ドゥーカスが若くして亡くなると、事態は変わった。マリアは皇位転覆を謀ったと疑われ、修道院へ自ら入った。

参考文献[編集]

  • 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝』 筑摩書房、1996年