エドゥアール・マネ

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エドゥアール・マネ
Édouard Manet
Édouard Manet.jpg
ナダールによる肖像写真(1867-1870頃)
生誕 (1832-01-23) 1832年1月23日
フランスの旗 フランス王国 パリ
死没 (1883-04-30) 1883年4月30日(51歳没)
フランスの旗 フランス共和国 パリ
墓地 フランスの旗 フランス パリ パッシー墓地[1]
北緯48度51分45秒 東経2度17分07秒 / 北緯48.86250度 東経2.28528度 / 48.86250; 2.28528
国籍 フランスの旗 フランス
教育 トマ・クチュールのアトリエ
著名な実績 絵画版画
代表作 草上の昼食』、『オランピア』、『笛を吹く少年
運動・動向 写実主義印象派
受賞 レジオンドヌール勲章騎士章(1881年)[2]
後援者 ポール・デュラン=リュエルジャン=バティスト・フォール
この人に影響を
与えた芸術家
ティントレットティツィアーノベラスケスゴヤエドガー・ドガ印象派[3]
この人に影響を
受けた芸術家
印象派

エドゥアール・マネÉdouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀フランス画家

生涯[編集]

出生、少年時代[編集]

プティ=ゾーギュスタン通りに残るマネの生家の門。エコール・デ・ボザールの目の前である[4]

マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り英語版)で、裕福なブルジョワジーの家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルエニ家の娘であった。マネの弟に、ウジェーヌ英語版(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた[5]

少年時代のマネ(1846年頃)。

1844年から1848年まで、トリュデール大通りの中学校コレージュ・ロランフランス語版に通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人アントナン・プルースト(後に美術大臣)をルーヴル美術館に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、ルイ・フィリップがルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることをドゥニ・ディドロが批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「僕たちは、時代に即していかなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならない。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという[6]

マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡の中に、光と影の働きを見たものだった。昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法が分かったのだ。」と述べている[7]1849年6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された[8]

修業時代(1850年代)[編集]

マネが1849年~1856年(17~24歳頃)師事したトマ・クチュール

マネは、1849年秋頃、トマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、1847年サロン・ド・パリに『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時のアカデミズム絵画界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代のドーミエにしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館でティントレットティツィアーノ・ヴェチェッリオフランソワ・ブーシェピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を模写した。1852年にはアムステルダム国立美術館を訪れ、1853年には弟ウジェーヌとともにヴェネツィアフィレンツェを旅行し、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を模写した。さらに、この時、ドイツや中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』、ジャン=バティスト・カミーユ・コローシャルル=フランソワ・ドービニーヨハン・ヨンキントらの風景画を高く評価していた[9]。この頃、弟たちのピアノの家庭教師シュザンヌ・レーンホフ英語版と恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟(レオン・コエラ=レーンホフフランス語版)として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている[10][注釈 1]

1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家との共有で、バティニョール地区英語版のラヴォワジエ通りにアトリエを構えた[11]。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、ディエゴ・ベラスケス、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥールエドガー・ドガと知り合った[12]。1857年にはフィレンツェを再訪し、アヌンツィアータ教会のアンドレア・デル・サルトの壁画を模写した[13]

サロン入選の努力(1860年代初頭)[編集]

1859年のサロンに、『アブサンを飲む男』を初めて出品したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だったウジェーヌ・ドラクロワからは評価された。詩人のシャルル・ボードレールも、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた[14]

ヴィクトリーヌ・ムーラン。『草上の昼食』や『オランピア』のモデルにもなった。

1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている[15]。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた[16]。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された[17]。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた[18]

1862年には、テュイルリー宮殿に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ジャック・オッフェンバックザカリー・アストリュクアンリ・ファンタン=ラトゥールといった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である[19]。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた[20]

この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している[21]1862年にマネの父が亡くなると、1863年10月、マネはシュザンヌと結婚した[22]。また、この頃知り合った女性ヴィクトリーヌ・ムーランにモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している[23]

絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)[編集]

『草上の昼食』が落選したのと同じ1863年のサロンで絶賛を浴びたアレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』[32]

マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた[33]。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された[34]。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった[35]。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った[36]。批評家エルネスト・シェノーフランス語版は、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちに囲まれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。……彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した[37]

1864年バティニョール大通りフランス語版34番地に引っ越した[38]。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通り英語版カフェ・トルトーニフランス語版や、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワ英語版に足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家エドモン・デュランティ英語版テオドール・デュレフィリップ・ビュルティ英語版、画家アンリ・ファンタン=ラトゥールアントワーヌ・ギュメフランス語版、版画家マルスラン・デブータン英語版などがいた[39]

マネが1865年のスペイン旅行で見て影響を受けたベラスケスの『道化師パブロ・デ・ヴァリャドリード』(当時の表題『フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像』)[注釈 2]

マネは、1865年のサロンに、ヴィクトリーヌをモデルとした『オランピア』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった[40]。なお、この時のサロンで、クロード・モネが海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという[41]

マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、ブリュッセルにいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったらと思います。私の上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている[42]。マネは、物議に辟易し、8月からスペインに旅行をした。マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている[43]。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている[44]。この旅の中で、批評家テオドール・デュレと知り合い、親友となった[45]

バティニョール派の形成(1860年代後半)[編集]

アンリ・ファンタン=ラトゥールによるマネの肖像画(1867年)[53]

マネは、1866年サン・ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通りフランス語版に住居を移し、死去までこの通りに住んだ[54]

マネは、1866年のサロンに『笛を吹く少年』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった[55]。駆け出しの作家だったエミール・ゾラが、この年の春、画家アントワーヌ・ギュメの紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私は、これほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した[56]

1867年パリ万国博覧会では、ジャン=レオン・ジェロームやカバネルのようなアカデミズム絵画のほか、ジャン=バティスト・カミーユ・コロージャン=フランソワ・ミレーのようなバルビゾン派の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て[注釈 3]、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人々の助けがあるので、成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた[57]。モネやフレデリック・バジールが、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった[58]。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている[59]

今日、芸術家[マネ]は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「率直な作品を見に来てくれ」と言う。この率直さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまう。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。[中略]彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたにすぎない。 — マネ、趣意書

ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった[60]

いかなる対象を前にしても、画家[マネ]は、対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円にすぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合だ。[中略]多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。[中略]複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆さばきによって色調の美しい煌めきを作り出せるかどうかということだけだ。 — エミール・ゾラ、「マネ論」
アンリ・ファンタン=ラトゥール『バティニョールのアトリエ』1870年。アストリュクをモデルに絵筆を持ってマネを、ルノワールバジールゾラモネらが囲んでいる[61]

マネは、ゾラの応援に意を強くし、1868年のサロンにはゾラの肖像を出品している。その机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている[62]

1860年代後半には、クロード・モネも、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、ピエール=オーギュスト・ルノワールフレデリック・バジールカミーユ・ピサロなど、アカデミー・シュイスシャルル・グレール画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている[63]。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家ベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾ英語版と知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる[64]1869年2月には、エヴァ・ゴンザレスがマネのアトリエに弟子入りした[65]

ドガ『マネとマネ夫人』1868-69年頃[注釈 4]。マネが切断し、怒ったドガが描き直すためにキャンバスを右側に継ぎ足したが、結局描かれないまま終わった[66]

エドガー・ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった。[67]。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商アンブロワーズ・ヴォラールから、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている[68]

1869年のサロンには、『バルコニー』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、ベルト・モリゾがモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象をかもし出しています。……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちも、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている[69]

1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族をピレネー山脈オロロン=サント=マリーに疎開させた。11月、国民軍に中尉として入隊し、首都防衛戦に加わったが、1871年1月、フランス軍は包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去って疎開していた家族と合流し、パリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。ベルト・モリゾの弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある[70]

第三共和政のパリ(1870年代)[編集]

普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、ロンドンに難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、セーヌ川の対岸ジャヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、シスレーらは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した[76]。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった[77]

ロンドンでモネやピサロと知り合った画商ポール・デュラン=リュエルが、他のバティニョール派の画家たちにも興味を持つようになり、1872年にはマネの作品24点を購入した[78]

第三共和政の下で最初に行われた1872年のサロンには、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。1873年のサロンには、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった[79]

モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている[80]。そして、1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であった[81]。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を進められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないようなセザンヌと関わりたくない」と公言していたという[82]。マネは、同じ1874年のサロンに、『鉄道』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン・ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である[83]。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた[84]

ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことを分かっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれ屋だ。」と批判した[85]。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知を得るためにはサロンはいまだ大きな力を持っていた。グループ展は、批評家ルイ・ルロワの風刺的な記事を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった[86]。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた[87]

モネとの親しい関係は続き、度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた[88]。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている[89]。アルジャントゥイユの庭でくつろぐモネ一家の様子も描いている。おそらく、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの戸外制作の手法に従ったものであった[90]。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を1875年のサロンに出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる[91]。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた[92]。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した[93]

マネは、1873年頃、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親しくなった。1875年、マラルメがエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を訳した時、その挿絵のためにリトグラフを制作した。翌1876年には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した[101]

マネは、1876年のサロンに、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「何ということ! 目鼻立ちがすっきりして、穏やかな眼差しをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、[中略]パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人々[『アルジャントゥイユ』]の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった[102]

一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家[マネ]の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた[103]。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした[104]。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている[105]

失望の中にも、[中略]男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いキャンバスに激情を投げ付けていた。 — ステファヌ・マラルメ、『とりとめのない話』「マネ」

1877年のサロンには、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルのジャン=バティスト・フォール英語版は、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役ハムレットを演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された[106]。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様高級娼婦を描いた自然主義的な主題の作品だったが、落選した[107]

1877年の冬から1878年にかけて、サロンに出品するため、カフェ・コンセールを舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった[108]

晩年(1880年代初頭)[編集]

カルロス=デュラン英語版によるマネの肖像画(1880年頃)。

マネは、1880年頃から、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化し、左脚の壊疽が進んできた[114]。医師から、田舎での静養を指示され、1880年の夏はパリ郊外のベルビューに滞在した。マネは、暇をまぎらわすため、友人たちや、お気に入りのモデル、イザベル・ルモニエに多くの手紙を送っている[115]。晩年の2年間は、病気のため、大きな油彩画を制作することが難しくなり、パステル画を数多く描いている[116]

1881年のサロンに、『アンリ・ロシュフォールの肖像』を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得した。これによって、以後のサロンには無審査で出品できることになった[117]。この年の夏は、ヴェルサイユで療養した[118]。親友アントナン・プルーストが美術大臣に任命されると、その働きかけにより、マネは同年12月末、レジオンドヌール勲章を受章することができた[119]

左脚の痛みに耐えながら、1881年冬から翌1882年にかけて、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作に取り組んだ。フォリー・ベルジェール劇場のバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスに、モデルを依頼した。正面を向いたウェイトレスは、虚ろな視線であるが、鏡に映った後ろ姿では、飲み物を注文する男性客に向かって身をかがめ、話をしている。正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、遠近法の歪みは、観る者を困惑させた[120]。もっとも、これは、意図的に遠近法を無視し、ウェイトレスの空虚な表情に全力で焦点を当てたものとも説明されている[121]

1882年7月から10月にかけて、パリ西郊のリュエイユに滞在した。マネのもとには、上流階級の男たちの愛人メリー・ローラン、オペラ歌手エミリー・アンブル英語版、宝石商人の娘イザベル・ルモニエなど、多くの女性たちが訪れた。マネは、これらの女性の肖像画を数多く描いている[122]。この頃、マネは、唯一の相続人として妻シュザンヌを指名する遺言を作成した。ただし、死後の作品売立ての売却益から5万フランをレオン・コエラに遺贈することとし、シュザンヌが相続した遺産は、彼女の死亡時、全てをレオンに相続させることとされていた[123]

1883年4月20日、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けた。しかし、経過は悪く、高熱にうなされた末、4月30日、51歳で亡くなった[124]。葬儀は5月3日に行われ、パリのパッシー墓地に埋葬された。あらゆるグループの画家たちが葬儀に参列した。ドガは、「我々が考えていた以上に、彼は偉大だった」と語った[125]

死後[編集]

名声の確立[編集]

パリ・パッシー墓地にあるマネの墓。

1884年1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった[131]。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた[132]

1889年パリ万国博覧会を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。これを機に、モネは、『オランピア』を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、オーギュスト・ロダン宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対する素晴らしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている[133]。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。1907年ジョルジュ・クレマンソーの働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された[134][135]

1894年、印象派の画家で収集家でもあったギュスターヴ・カイユボットが亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に遺贈するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、1896年2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている[136]

1906年、近代美術の大収集家エティエンヌ・モロー・ネラトン英語版がルーヴル美術館に寄贈したコレクションの中に、マネの『草上の昼食』など5作品が含まれていた[137]

1932年、パリで生誕100年の記念展覧会が開かれた[138]

1983年には、パリのグラン・パレ美術館で、没後100年の回顧展が行われた[139]

市場での評価[編集]

マネの生前の1878年、ジャン=バティスト・フォールが資金難によりオテル・ドゥルオ英語版でマネの作品を競売に出した時、1点が2000フラン(80ポンド)で売れただけで、その他は売れなかった。エルネスト・オシュデが破産して同じ年にマネの作品を競売に出したが、1点当たり35フランから800フランの間でしか落札されなかった[140]

死の翌年1884年の回顧展後、オテル・ドゥルオでその作品の多くが競売されたが、『オランピア』が400ポンド(1万フラン)、『アルジャントゥイユ』が500ポンド(1万2500フラン)というのが高い方で、油絵93点ほかパステル画、水彩、デッサン、エッチング、リトグラフの総売上は4665ポンド(11万6637フラン)と、マネ家の期待を大きく下回った。落札者も大部分が遺族と友人であった[141]

マネの市場価格は、徐々に上がり、1898年、『ギターを持つ女』が2800ポンド(7万フラン)で売られた。1910年以降、マンハイム市立美術館が『皇帝マキシミリアンの処刑』を4500ポンドで購入するなど、ポンドで4桁台が常態となり、1920年代にはポンドで5桁台のものも現れるようになった。1926年には、サミュエル・コートールド英語版が『フォリー・ベルジェールのバー』を2万4100ポンド(手数料込み)で購入し、第2次世界大戦前のマネの最高記録となった[142]

第2次世界大戦後は、ポンドで5桁台が常態となり、1958年に『旗で飾られたモニエ通り』が11万3000ポンドで落札され、ポンド6桁台が現れるようになった。それでも、ルノワールに比べると、市場での人気は高くなかった。ところが、1980年代以降、美術市場全体で良品が払底するに従い、マネ作品の価格は更に高騰した。1986年12月1日、ロンドンのクリスティーズで『舗装工のいるモニエ通り』が700ポンド(1017万ドル、16億5410万円)という高値を記録した。1989年11月14日、ニューヨークのクリスティーズで、『旗で飾られたモニエ通り』がJ・ポール・ゲティ美術館によって2400万ドル(34億7520万円)で落札され、マネの史上最高値を更新した。1997年には、『パレットを持った自画像』が1700万ドル(20億3320万円)という2番目の高値で落札された[143]

作品[編集]

カタログ[編集]

マネのサイン

マネは、遅筆で、生涯の制作数が比較的少ない。油絵は400点余り、水彩画100点余り、版画100種余りである[144]

時代背景、画風[編集]

19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた[145]。歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた[146]。明確な美の基準を持たない新興のブルジョワ階級は、伝統的なサロンの権威に盲従していたため、画家が絵を売って生活しようとすれば、サロンで入選し、賞をとることが絶対的な条件となっていた[147]

もっとも、こうした新古典主義に対抗して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、ヴェネツィア派やピーテル・パウル・ルーベンスを信奉して、豊かな色彩表現を追求し、革命の第1の波をもたらした[148]。次いで、ギュスターヴ・クールベは、写実主義を標榜し、卑近な題材を誠実に描こうとした。これは革命の第2の波であった[149]

ベルタール英語版による『オランピア』の風刺画。1865年。

マネは、保守的なブルジョワであり、彼自身はサロンに対する反旗を掲げるつもりはなく、むしろ過去の巨匠から積極的に学ぶことによって、サロンで成功することを切望していた。そのため、印象派グループ展が立ち上げられても参加せず、サロンへの応募を続けた[150]。しかし、マネの『草上の昼食』や『オランピア』は、本人の意図に反して絵画界にとっての大スキャンダルを巻き起こし、第3の革命の引き金を引くことになった[151]。その革命には、主題の問題と、造形の問題があった[152]

主題の面では、ニンフでも女神でもない現実の女性が、裸身をさらすということ自体、フランス第二帝政時代の厳格な道徳観の下では、強い非難に値した[153]。当時のフランスは、産業革命が急速に進行し、ブルジョワが台頭する時代であり、パリには大量の人口が流入し、都市として急拡大していた。娼婦は享楽に湧くパリの裏面を象徴する存在であり、それを露骨に描いた『オランピア』は、ブルジョワ社会に冷や水を浴びせる作品であった[154]。『鉄道』や『バルコニー』では、近代社会における人間同士の冷ややかな関係や、人間疎外の様子を、冷徹に描いた。このように、近代化・都市化する時代をありのままに描くことがマネの本質であった[155]

一方、造形の面では、『草上の昼食』も、『オランピア』も、伝統的な陰影による肉付けが施されておらず、平面的に見える。『笛を吹く少年』では、背景は無地で、奥行きが感じられない。『フォリー・ベルジェールのバー』では、ウェイトレスの正面の姿と、背後の鏡に写った後ろ姿とが、遠近法的に矛盾を来している。このように、マネの作品は、伝統的な約束事にとらわれず、画家が目撃した現実を伝えようとする点で革新的であった[156]

印象派との関係[編集]

フレデリック・バジール『バジールのアトリエ(ラ・コンダミンヌ通り)』1870年。油彩、キャンバス、98 × 128 cm。オルセー美術館[157]

マネは、若い印象派の画家たちから敬愛を受け、前述のように伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えた。フレデリック・バジールの『バジールのアトリエ』では、キャンバスの前でマネがバジールに助言を与えているところが描かれている[158]。明示的にマネにならった作品もあり、モネは、マネの『草上の昼食(水浴)』に発想を得て1865年-66年に同様の主題で『草上の昼食』を制作し[159][注釈 5]ポール・セザンヌは、『オランピア』に惹かれ、1869年-70年頃、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した[160]

マネ『ロンシャンの競馬場』1864/65-72年[注釈 6]

1864年-65年の『ロンシャンの競馬場』のリトグラフでは、馬は4本脚というような既存の知識に頼ることなく、一見殴り描きのような線で、一瞬の力強い動きを描写している。このような手法は、印象派に引き継がれている[161]

他方、マネが、後輩のモネや弟子のベルト・モリゾら印象派から影響を受けた面もあり、1870年代には、印象派的な様式に近づいている[162]。モネにならって戸外制作を取り入れたり、印象派風の筆触分割を用いたりしている。もっとも、モネに代表される印象派が、光と大気の揺らぎをキャンバスに留めることに集中し、人物をラフな筆触で幻影のように描いたのとは異なり、マネの描く人物には存在感と現実感があり、印象派とはやや関心が異なっていた[163]

このように、マネは、印象派の画家たちと影響を与え合っており、印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の1人として語られることもあるが、印象派グループ展に参加しなかったことから、印象派そのものには含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である[164]

ジャポニスム[編集]

マネの絵画には、1860年代から流行したジャポニスムの影響も指摘されている[165]。マネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には、日本の花鳥図屏風と浮世絵が飾られており、浮世絵への関心が窺える。マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしている。『笛を吹く少年』の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響があると考えられる。『キアサージ号とアラバマ号の海戦』には、伝統的な遠近法と異なり、高い視点と水平線、船を画面の端に寄せる構図が採用されており、日本風の空間表現である。『ボート遊び』の、水平線をなくし背景全体を水面とする構図、モティーフを切り取る手法も、同様である[166]

ゾラは、「マネの単純化された絵画を日本の版画と比較するのは興味深いだろう。日本の版画は、未知の優美さと見事な色斑によって、マネの絵と似ているから。」と書いている[167]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、マネ自身は、シュザンヌと結婚した後もレオンを認知していない。このこともあって、近年では、マネの父オーギュストがレオンの父親だという説も浮上している(吉川 (2010: 142))。
  2. ^ 1635年頃。油彩、キャンバス、209 × 123 cm。プラド美術館Pablo de Valladolid”. Museo Nacional del Prado. 2017年11月17日閲覧。
  3. ^ 費用は1万8000フランで、高級官僚の年収1年分に相当した。マネの母親が費用を出した(木村 (2012: 108))。
  4. ^ 油彩、キャンバス、65 × 71 cm。北九州市立美術館
  5. ^ 『草上の昼食』という題はモネの作品の方が先であり、マネは、これにならって、1867年の個展で『水浴』を『草上の昼食』と変更した(カシャン (2008: 55))。
  6. ^ リトグラフ、50.8 × 38.7 cm。ヒューストン美術館Les Courses (The Races at Longchamps)”. Google Arts & Culture. 2017年11月22日閲覧。

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参考文献[編集]

外部リンク[編集]