マヌエル・ロブレス・ペスエラ

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はロブレス第二姓(母方の)はペスエラです。
マヌエル・ロブレス・ペスエラ
Manuel Robles Pezuela.jpg
タクバヤの陰謀による暫定大統領
任期
1858年12月24日 – 1859年1月21日
前任者 フェリックス・マリア・スロアガ
後任者 w:José Mariano Salas
個人情報
生誕 1817年5月23日
グアナフアトグアナフアト州
死没 1862年3月23日
セルダンプエブラ
国籍 メキシコの旗 メキシコ
政党 保守


マヌエル・ロブレス・ペスエラManuel Robles Pezuela1817年5月23日1862年3月23日)は、メキシコ軍人メキシコの大統領

人物[編集]

米墨戦争での活躍で頭角を現し、セルロ・ゴードの戦いではアメリカ軍の位置の予測に成功した。マリアーノ・アリスタ政権では軍事大臣を務めたのをはじめ以降の政権でも、外務大臣アメリカ合衆国大使など政府要職を務めた。

1857年イグナシオ・コモンフォルト政権では海軍大臣を務めた。フェリックス・マリア・スロアガによるクーデターが起きると両者の仲裁に入り、スロアガ政権でも海軍大臣の地位を維持した。1858年12月23日にミゲル・マリア・デ・エチュガライ保守派自由主義派の妥協案としてナヴィダード綱領を宣言したとき翌日に、ペスエラは大統領に就任しエチュガライを支援を支援した。その後スロアガとミゲル・ミラモンの間で主導権争いが起こると、彼はミラモンが復元したタクバヤの陰謀に加わった。レフォルマ戦争では保守派の一員としてベニート・フアレス政権とは対立した。ミラモン政権が発足するとメキシコの君主となるべき王子を探すためにヨーロッパに渡った。

メキシコ出兵に際して、イグナシオ・サラゴサ将軍によってほかの保守派の軍人とともに捕えられたが、メキシコの君主候補を探したことが国家反逆罪であるとみなされ、フアレスの命令で処刑された。