ヘルムート・シュペート

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Berlin-Baumschulenwegにある記念プレート

ヘルムート・ルーヴィヒ・シュペート(Hellmut Ludwig Späth、1885年12月4日 - 1945年2月15日)はドイツの園芸会社(Späth'schen Baumschulen)の社主である。1943年に「戦争経済犯罪」(Kriegswirtschaftsvergehen)の罪で収容所に収監され、収容所で死亡した。

略歴[編集]

1720年創業のベルリンのシュペート園芸(Späth'schen Baumschulen)の社主フランツ・シュペート(Franz Späth)の息子としてパリで生まれた。ドイツの名門寄宿学校、ポルテ(Pforte)で学んだ後ベルリン大学ケンブリッジ大学で植物学や経済学を学んだ。ベルリンに戻り農業大学で1912年に広葉樹の成長に関する研究で博士号を得た。

1912年にシュペート園芸の経営を引き継ぎ、1920年から1930年の期間では世界最大の園芸会社に拡張したが[1]世界恐慌ではいくつかの土地を売らなければならなかった。

1922年にユダヤ人女性と結婚し、後にジャーナリストになる娘のダグマル・シュペートが生まれた。1926年に離婚し、その後シュペートは2度結婚するが、子供は生まれなかった。

1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に入党し、アウトバーンやベルリンのオリンピック競技場、ベルリン・テンペルホーフ空港の緑化事業の契約から利益を得た[2]。ベルリン大学を解雇された植物学教授ヴェルナー・マグヌスの友人であったことや、娘のダグマルが"Halbjude"(半ユダヤ人)であったことから、ナチスの迫害を受けるようになり、1943年に密告を受け、1943年4月に「戦争経済犯罪」で起訴され、8月にバウツェン刑務所に収監された[3]。その後ザクセンハウゼン強制収容所に移され、2月15日に死亡した。公式の死因は下痢などによる病死であった。

1944年に閉鎖されたシュペート園芸の育樹園は1947年に公共施設となった。シュペート樹木園(Späthsches Arboretum)となり、ベルリン大学が管理し、一般公開されている。

参考文献[編集]

  • Deutscher Wirtschaftsverlag (Hrsg.): Reichshandbuch der deutschen Gesellschaft: das Handbuch der Persönlichkeiten in Wort und Bild. Deutscher Wirtschaftsverlag, Berlin 1930–1931. 2 Bde

脚注[編集]

  1. ^ F. Böger: Folgen eines Verdachts. In: Die taz. vom 17. September 2010
  2. ^ U. Kulke: Späth'sche Baumschulen - von der ersten Ausgabe an dabei. Berliner Morgenpost, 8. Mai 2005, abgerufen am 29. Juni 2014
  3. ^ Heinrich-Wilhelm Wörmann: Widerstand in Köpenick und Treptow (= Band 9 der Schriftenreihe über den Widerstand in Berlin von 1933 bis 1945), Gedenkstätte Deutscher Widerstand, Berlin 1995, S. 265.