ピョートル・ネステロフ

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ピョートル・ニコラエヴィチ・ネステロフロシア語:Пётр Николаевич Нестеровラテン文字転写の例:Pyotr Nikolayevich Nesterov) 1887年2月27日[O.S. 2月15日] - 1914年9月8日 [O.S. 8月26日] )はロシア帝国パイロットである。曲技飛行のパイオニアでもある。

概要[編集]

軍の士官学校の教師の息子に生まれた。軍人の道を選び、士官学校から砲兵学校に進んだ。東シベリア第9砲兵隊に中尉として配属された。1909年に飛行機会社に派遣されて、航空の世界にはいり、最初のグライダーを製作し飛行の練習を始めた。1911年から軍の飛行士としての訓練を受け、1912年11月に課程を修了し、軍のパイロットになり、キエフの隊のリーダーとなり、夜間飛行も行った。1913年70馬力のエンジンのニューポールIVで観衆のまえで宙返り飛行を行った。この飛行で軍からは懲罰をうけたが、ネステロフは有名になったり、後に勲章を受章した。

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第1次世界大戦が始まると、戦闘に参加し、爆弾の投下に技術をみせた。戦争の初期には航空機には武装はなかったが、ネステロフは、敵の航空機を空中で破壊した最初のパイロットとなった。1914年8月26日、モラーヌ・ソルニエ単葉機に乗ったネステロフは偵察士フリードリッヒ・フォン・ローゼンタールと操縦士フランツ・マリーナの乗った、オーストリア軍の偵察機アルバトロスB.IIを墜すために彼の機の主脚を敵機に衝突させようとした。プロペラが敵機に当たり、2機は墜落した。乗員は3人とも死亡した。この戦闘の場所に近いジョウクヴァ(Zhovkva, 現ウクライナ)の街は一時期ネステレフと改名されていた。ネステレフの行った体当たり戦法は第2次大戦のソ連空軍にも受け継がれ、タラン戦法と呼ばれた。

ネステロフの功績をたたえてソ連は、曲技飛行の乗員に贈るネステロフ・カップを創設し、これは後に国際航空連盟の世界エアロバティック選手権のチャンピオンに贈られるネステロフ・トロフィーに引き継がれた。